ヒュー・ウォルポール「ジェレミー少年と愛犬ハムレット」読了。
本作「ジェレミー少年と愛犬ハムレット」は、1923年(大正12年)に発表された長編小説である。
この年、著者は39歳だった。
原題は「Jeremy and Hamlet」。
ジェレミー三部作のうち、二番目の作品である(『ジェレミー』1919、『クレール校のジェレミー』1927)。
庄野潤三「ザボンの花」のあとがきに登場
庄野潤三の初めての長編小説『ザボンの花』(1956、近代生活社)のあとがきに、この本のことが書かれている。
英国の作家ヒュウ・ウォルポールの代表的な作品に「ジェレミイとハムレット」という長篇があって私は大分前に面白く思って読んだことがある。ジェレミイは主人公である少女の名前で、ハムレットはその愛犬の名だ。(庄野潤三「ザボンの花」)
ジェレミイが「少女の名前」とあるのは、「少年の名前」の誤りだが、庄野さんは、「ザボンの花」を書くにあたって、「『ジェレミイとハムレット』でウォルポールが英国の家庭の、部屋の中とか廊下などの空気を私たちに感じさせてくれたような具合に、私も自分の書くことが出来る範囲で、ある時代のある生活を表現してみようと思った」と綴っている。
本作「ジェレミー少年と愛犬ハムレット」は、現在(1923年)から30年ほど昔(1894年)のこと、つまり、主人公ジェレミーが10歳だった頃の思い出を綴った回想記という形になっている。
全部で12の章があり、一つ一つの章が独立したエピソードで構成されている。
この小説を読むまで、僕は「ジェレミー少年と愛犬ハムレット」も、庄野さんの小説と同じように、特別のストーリーのないスケッチのような物語なんだろうと考えていたが、これは違った。
確かに「ジェレミー少年と愛犬ハムレット」で特別にドラマチックな事件が起きたりはしないが、それぞれの章は(一)~(四)までの四部構成となっていて、それなりに起承転結を意識して組み立てられている。
例えば、『ザボンの花』の「あとがき」で、庄野さんも引用している「第九章 絵本」は、妹メアリーの誕生日プレゼントに買ってきた『ロビンソン・クルーソー』の絵本を、メアリーに贈るのが惜しくなってしまうという物語だが、妹メアリーの誠意ある行動に心を動かされたジェレミーは、最後には改心して『ロビンソン・クルーソー』をメアリーにプレゼントする、といった筋書きになっている。
ジェレミーは立ちつくしたままでした。自分がどんなに欲ふかく、いやしい、あさましい人間であるか、これ以上はっきり思い知らされることはあり得ないように思いました。メアリーは自分のお金で絵本を買ってきてくれた。十シリングのなかから五シリング三ペンス半を使って。(ヒュー・ウォルポール「ジェレミー少年と愛犬ハムレット」訳・長尾輝彦)
利己的な少年の気持ちと自己嫌悪、妹を愛する感情など、瞬時に移りゆく思春期の少年の気持ち。
めまぐるしく変わるジェレミーの心理状態こそが、この作品を起伏ある物語に仕立て上げていると言えるだろう。
思春期の少年たちに普遍的な成長過程を描く
本作「ジェレミー少年と愛犬ハムレット」は、いわゆる少年成長物語だが、何か大きな事件や冒険を一つ乗り越えて成長するといった形式の物語とは違う。
思春期の少年は、毎日少しずつ成長していくものだということを、この物語は思い出させてくれる。
そして、ちょっとした小さなつまづきの中で、少年は成長していくものだということを。
どうしようもない孤独と意気消沈のあとに味わった、あの幸福感と安堵感。ジェレミーの人生は、あの半時間の出来事から始まったと言ってもよいほどです。あのとき、ジェレミーは、鏡の国のアリスのように、川をこえ、わがものとなるべき領土へと足をふみいれたのでした。(ヒュー・ウォルポール「ジェレミー少年と愛犬ハムレット」訳・長尾輝彦)
言い換えると「ジェレミー少年と愛犬ハムレット」は、少年のつまづきの物語である。
つまづいて転ぶたびに少年は立ちあがって歩き始め、やがて、またつまづく。
そんな少年の成長を陰から支えているのが、父親や母親、妹などといった家族の存在であり、ウィンチェスターやライリーといった友人たち、そして、もちろん、愛犬ハムレットの存在を忘れてはいけないだろう。
とりわけ、少年の気持ちを何から何まで理解してくれるサミュエルおじさんが、ジェレミーに与える影響は大きい。
何から何までソリの合わない父親との衝突を、サミュエルおじさんは冷静な意見で助けてくれる。
「いいかい、お前はこのことをあまり気にしてはいけない。お前もまちがっていた。そしてお父さんは、お父さんなりのものの見方では、正しかったんだ。お父さんの見方とお前の見方がおなじでなかっただけのことなんだ。お前も大きくなればわかってくる。人が必ずしも自分とおなじ見方をするとはかぎらないことがね」(ヒュー・ウォルポール「ジェレミー少年と愛犬ハムレット」訳・長尾輝彦)
独身で、社会的な地位は何も持たないけれど、人生をよく知っているサミュエルおじさんは、まるで『男はつらいよ』に出てくる寅伯父さんみたいだ(ジェレミーが満男少年)。
それにしても、意地っ張りで自分勝手なジェレミーは、まるで少年時代の自分のように思える。
被害者意識が強く、妄想の中へ現実逃避するところも、何かにつけて自分を正当化するところも、子どもの頃の自分に似ているような気がする。
何度も何度も頷きながら読み進めていったけれど、考えてみると、この作品は1923年に発表されたもので、しかも物語の舞台は1894年である。
130年も昔の少年に、ここまで共感できるものとは一体なんだろうか。
もちろん、それは、思春期の少年たちに普遍的な成長過程というやつだろう。
忘れていた少年時代の何かを思い出させてくれる小説、それが、この「ジェレミー少年と愛犬ハムレット」だと思う。
そして、庄野さんが言っていた「英国の家庭の、部屋の中とか廊下などの空気」もいい。
荷物を背負ってオレンジ通りをのぼってくるマルレディーばあさん。街灯から街灯へ火をもって走りまわる点灯夫。丸石をしきつめた石畳の道を苦労しながらすすみ、女子高校の横をすぎていくグラインダーじいさんのおんぼろ馬車、その馬車をひきながら一歩ごとによろよろする老いた馬。夕暮れの緑色の空がいつしか夕やみに変わってゆく。(ヒュー・ウォルポール「ジェレミー少年と愛犬ハムレット」訳・長尾輝彦)
19世紀末のイギリスの風景が、10歳の少年の目を通して美しく描かれていく。
そんなところにも、この物語の価値があるのだと思った。
書名:ジェレミー少年と愛犬ハムレット
著者:ヒュー・ウォルポール
訳者:長尾輝彦
発行:2008/12/25
出版社:れんが書房新社