物語の考察

村田沙耶香『コンビニ人間』考察|なぜ「普通」ではない生き方は許されないのか

村田沙耶香『コンビニ人間』考察|なぜ「普通」でない生き方は許されないのか

村田沙耶香の『コンビニ人間』は、「異質なもの」についての小説ではなく、「異質なものを許容できない社会」についての小説だったのではないだろうか。

異質なものを許容できない窮屈な社会は、常に「普通」であることを求め続ける。

普通とは何か?(正常とは何か?)

「普通ではない」とはどういうことか?

そして、「普通ではない者」はどのようにして生きていくべきなのか?

『コンビニ人間』は、「普通ではない者」の生きにくさを描きながら、「普通ではない者」の存在を許さない現代社会の歪みを描き出している。

普通であることが求められる社会とは、どのような社会か?

現代社会は「普通であること」を求め続けている。

『コンビニ人間』に描かれているのは、そんな「普通であること」を求め続ける社会の有り様だ。

前に菅原さんのバンド仲間がお店に顔を出したときは、女の子たちは菅原さんと同じような服装と喋り方だったし、佐々木さんは泉さんが入ってきてから、「お疲れさまです!」の言い方が泉さんとそっくりになっていた。(略)こうして伝染し合いながら、私たちは人間であることを保ち続けているのだと思う。(村田沙耶香「コンビニ人間」)

彼らは「普通」であろうとするが故に、みな同じような人間になっていく。

服装や言葉遣いだけではない。

生き方さえも、彼らにとっては「普通」であることに必要な社会規範(ルール)だった。

「チャンス……それって、やってみるといいことありますか?」素朴に尋ねると、ミホの旦那さんが戸惑った表情になった。「いや、早いほうがいいでしょ。このままじゃ駄目だろうし、焦ってるでしょ、正直? あんまり年齢いっちゃうとねえ、ほら、手遅れになるしさ」(村田沙耶香「コンビニ人間」)

大人になった女性は、ちゃんと就職して働かなければならない。

結婚して子どもを産み育てなければならない。

それが現代社会を生きる者のルールである。

ルールから外れた者は、すぐに「異物」として排除された。

なぜ、社会は「普通であること」を求め続けているのだろうか。

「人生終了だよな。だめだ、ありゃ。社会のお荷物だよ。人間はさー、仕事か、家庭か、どちらかで社会に属するのが義務なんだよ」(村田沙耶香「コンビニ人間」)

現代社会において「普通」とは「周りと同じ」であることを意味している。

みんなと同じ、つまり「多数派であること」こそが、現代社会における「普通であること」なのだ。

一見、彼らは寛容で「多様なもの」を受け容れる姿勢を見せる(なぜなら「多様性の時代」だから)。

あのさ、私けっこう同性愛の友達とかもいるしさあ、理解あるほうだから。今はアセクシャル? とかいうのもあるんだよね!」(村田沙耶香「コンビニ人間」)

彼らが考えている「多様性」は「普通の多様性」である。

「異質なもの」さえ「普通に異質なもの」でなければ、人々の理解を得ることはできない。

多数派から外れた者は排除の対象になるから、人々は必死に「普通」であり続けようとした。

彼らにとって「普通であること」は、もはや生き延びるための成功戦略だったと言っていい。

そんな人々の「普通であること」を支えているものは、現代社会の闇に隠れた「不安」だったかもしれない。

「あの年齢でコンビニバイトをクビになるって、終わってますよね。あのままのたれ死んでくれればいいのに!」皆が笑い声をあげ、私も「そうですね!」と頷きながら、私も異物になったときはこうして排除されるんだな、と思った。(村田沙耶香「コンビニ人間」)

人は「安定」を求めている。

異質な存在は学校でもいじめられるから、「普通であること」は重要な問題だった。

子どもたちは幼いうちから普通であり続けようとする力、いわば「普通力」を身に付けていく。

周りと同じであるための「普通力」を備えていなければ、世の中を生きていくことはできない。

彼らの「普通であること」を支えているのは、「普通でなければ生きていくことができない」という不安である(あるいは恐怖)。

平穏に生きるため、人々は「普通」であり続けようとしていた。

「普通を求める社会」とは、つまり、「不安を抱える人々」によって構成される社会のことだったのだ。

そこに示されているのは、そうしなければ生きていくことのできない「人間の弱さ」である。

我々はみな「弱い存在」だ。

「弱い存在」である我々は、「普通であること」によって「多数派」となり、社会から排除されることを未然に防ごうとしている。

そして、多数派であり続けるために、彼らは「異質なもの」の存在にスポットをあてた。

そうしなければ安心していられないほど不安定な時代を、我々は生きている。

コンビニ人間とは何か?

不安定な時代は、また、「不安定な人々」の存在をも浮き彫りにした。

「不安定な人々」を飲みこむことができるほど、現代社会に余裕はない。

普通ではない彼らに、居場所はなかった。

不安定な人々が生きるための居場所として描かれているのが「コンビニ」である。

制服があり、マニュアルがあり、定められた行動様式に従って生きることが、つまり、コンビニの「普通」だった。

大学生、バンドをやっている男の子、フリーター、主婦、夜学の高校生、いろいろな人が、同じ制服を着て、均一な「店員」という生き物に作り直されていくのが面白かった。(村田沙耶香「コンビニ人間」)

主人公(古倉恵子)はコンビニ店員であることによって「普通」を獲得しようとする。

彼女にとって「コンビニ」は修道院であり、「コンビニ」で働く彼女は、いわば修道女だった。

外から人が入ってくるチャイム音が、教会の鐘の音に聞こえる。ドアを開ければ、光の箱が私を待っている。いつも回転し続ける、ゆるぎない正常な世界。私は、この光に満ちた箱の中の世界を信じている。(村田沙耶香「コンビニ人間」)

「普通」を知らない彼女は、マニュアルに従って働き、同僚店員の言葉遣いやファッションを真似ることで、「普通であること」を演じ続けている。

「自分が何者であるか」ということは、彼女にとって既に問題ではなかった。

現代社会を生き延びるために、彼女はいつまでも「普通であること」を演じ続けなければならない。

あ、私、異物になっている。ぼんやりと私は思った。店を辞めさせられた白羽さんの姿が浮かぶ。次は私の番なのだろうか。(村田沙耶香「コンビニ人間」)

しかし、「普通であること」を演じているのは、果たして、自らを「コンビニ人間」と称する主人公だけだったのだろうか?

不安定な時代を生き延びるために、誰もが必死だった。

彼らは必死で「普通」であり続けようとしていた。

「自分が何者であるか」を見失っているのは、もしかすると、彼らも同じだったのかもしれない。

均一な普通の社会において、特別な存在である「個人」は必要とされていない。

特別な存在は「異質なもの」として、排除の対象になるだけだ。

意識的にせよ、無意識にせよ、人々は「普通」であり続けるために、自分を演じ続けている。

つまり、皆の中にある『普通の人間』という架空の生き物を演じるんです。あのコンビニエンスストアで、全員が『店員』という架空の生き物を演じているのと同じですよ」(村田沙耶香「コンビニ人間」)

まるで、それが「本当の自分」であるかのように。

果たして、我々は何者なのか?

ここに、本作『コンビニ人間』の投げかけている大きなテーマがある。

もしかすると、「コンビニ人間」は「コンビニ人間」だけではなかったのかもしれない。

会社には「会社人間」がいて、お役所には「お役所人間」がいて、大学に行けば「大学人間」がいる。

彼らは、それぞれの組織において、それぞれの社会規範に従いながら、「普通である自分」を演じ続けている。

そう考えると、社会は不気味だ。

「本当の自分」がどこにも存在しない「見せかけだけの社会」を、我々は生きていることになるのだから。

読後の「気持ち悪さ」はどこから来るのか?

この物語の「気持ち悪さ」は、普通ではない存在を許すことのできない偏狭な社会の気持ち悪さである。

本来、我々は、誰もが均一に「普通である」わけではない。

我々は、それぞれに個性を抱えた一人一人の「自分」であるからだ。

就職しない自由や結婚しない自由は、我々に与えられた個人的な自由である。

しかし、今、自由は、社会規範の名の下に著しく制限されようとしている

不安定な現代に「自分」という存在が許容される余地(余裕)はない。

社会は「普通であること」を暗に求め、人々は「普通であること」によって自分自身を保とうとしている。

我々に許されているのは、「普通であること」を装いながら、あたかも「自由である」かのように振る舞うことだけのことだ。

見えない枠の中にはめられた「見せかけ」だけの自由。

誰もが気付かないふりをしている現代社会の見えない枠を、この物語は可視化してしまった。

そこに、この物語が与える「気持ち悪さ」の正体がある。

現代社会の「闇」は、「異質の存在」として現代社会から切り捨てられた中年男性(白羽)によって、次々と可視化されていく。

「バイトのまま、ババアになってももう嫁の貰い手もないでしょう。あんたみたいなの、処女でも中古ですよ。薄汚い。縄文時代だったら、子供も産めない年増の女が、結婚もせずムラをうろうろしてるようなものですよ。ムラのお荷物でしかない」(村田沙耶香「コンビニ人間」)

白羽の言葉は、多様性を認める現代社会の背後に潜む「闇」の言葉である。

「古倉さんも、もう少し自覚したほうがいいですよ。あんたなんて、はっきりいって底辺中の底辺で、もう子宮だって老化しているだろうし、性欲処理に使えるような風貌でもなく、かといって男並みに稼いでいるわけでもなく、それどころか社員でもない、アルバイト。はっきりいって、ムラからしたらお荷物でしかない、人間の屑ですよ」(村田沙耶香「コンビニ人間」)

白羽の義妹の言葉にも、現代社会の本音がある。

「勘弁してくださいよ……バイトと無職で、子供作ってどうするんですか。ほんとにやめてください。あんたらみたいな遺伝子残さないでください、それが一番人類のためですんで」(村田沙耶香「コンビニ人間」)

「異質なもの」を徹底的に許すことのできない現代社会。

その現代社会で、我々はいつもどおりに「普通であること」を装いながら、まるで「自由である」かのように生きていく。

なぜなら、それが、我々の求めている「安定的で健康的な社会」だからだ。

人はみな「普通であること」を装いながら、「会社人間」や「大学人間」として演じ続けていくのかもしれない。

普通であり続けるために

『コンビニ人間』は異質な者の物語ではなく、異質な者の存在を許すことのできない、病んだ現代社会の物語だ。

そして、病んだ現代社会を構成する我々一人一人が、実は隠された「コンビニ人間」でもある。

多様性を尊重する社会など、どこにも存在しないということを、この作品は警告している。

我々に与えられているのは、あたかも多様性を尊重しているかのように優しくて温かい、見せかけだけの健全な社会である。

見せかけだけの社会の中で、人々はみな普通であり続けようとしている。

生き延びるために、少しでも安定した社会で生き続けていくために。

普通の人々によって構成された見せかけだけの普通の社会の中で、今日も我々は普通であり続けているだろう。

普通ではないかもしれない「本当の自分」という存在を認めないようにしながら。

「本当の自分」がどこにも存在しない見せかけだけの不気味な社会を、明日も我々は生き続けていくのだ。

書名:コンビニ人間
著者:村田沙耶香
発行:2016/07/30
出版社:文藝春秋

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