福原麟太郎「この道を行く」読了。
本作「この道を行く──わが人生観」は、1965年(昭和40年)2月から6月まで『熊本日日新聞』に連載されたエッセイ「窓を開いて」を再編集の上、1971年(昭和46年)3月に大和書房から刊行された随筆集である。
この年、著者は77歳だった。
庄野潤三や河上徹太郎との交流
目次を読むと「夕べの雲」という言葉が最初に見つかった。
もちろん、庄野潤三の代表作『夕べの雲』のことだろう。
この随筆は「この小説のことは本紙でもすでに河上徹太郎氏が、宗教欄(五月十七日)で「公徳心にふれて」と題して書いていられる」という一文から始まっている。
河上さんが宗教欄でこの小説に触れたのはいわれがなくはない。大浦氏というお父さんが、じっとその家族を抱きしめて、この丘の上で暮し、みんなの幸福を守っている。その道徳的英知と勇気と判断、それがこの小説をたよりあるものとしている。家庭に望ましいまとまりの力を与えている。それがこの稀有な傑作の鍵なのだ。(福原麟太郎「『夕べの雲』」)
『夕べの雲』は、著者自身の評価も、文壇における評価も、また読者からの評価も高いという意味において、庄野潤三という作家を代表する作品となった。
この随筆集で、庄野さんは、もうひとつ登場している。
それは池袋の百貨店で開催中の、近代日本文学館設立のための色紙展を観に行ったときのことだ。
会場の入口に受付のように座っていたのが、たまたま庄野さんだった。
売場で庄野さんの『夕べの雲』を探したが無いので『鳥』を買って来て、署名して貰った。おまけとして、あなたが色紙へ書かれた文句を添えて下さいとたのんだら、快く「慈眼視衆生」と書いて下さった。(福原麟太郎「今日の運勢」)
この署名本は、福原さんの娘さんにプレゼントされたという。
ちなみに、このときの色紙展は、1965年(昭和40年)5月から6月にかけて西武百貨店で開催された「設立基金募集 現代芸術家色紙展」で、隣の会場では「偉大なる詩人の足跡 文豪佐藤春夫展」が開催されていた。
福原さんは最初に「佐藤春夫展」を見学しているのだが、その佐藤春夫を回想した随筆もある。
その車の中で、佐藤さんは明治四十二年に十八歳で東京へ出て来たと言って居られた。「ああ、明治四十二年というのは自由劇場が出来た年ですね」と私が相槌を打ったら、佐藤さんは「ええ、四十二年はスバルの創刊された年です」と答えられた。(福原麟太郎「佐藤春夫」)
佐藤春夫は、1964年(昭和39年)5月6日に狭心症で急逝しているから、1965年(昭和40年)には、没後一周年のイベントが開催されていたのだろう。
文学関係では、森田たまの随筆に関する書評もいい。
ちかごろ感心した随筆は森田たまさんが、郷里札幌の商店PR誌『さっぽろ』に書いた「名物あり」という四枚ほどのものであった。いかにも気軽にできているらしいけれども、見事な芸術品で、苦心もされたろうが、森田さん六十年の文学修行の蓄積からでなければ生れ得ないものとつくづく感心し、編集のかたにもそう言って手紙を出した。(福原麟太郎「随筆」)
「随筆」という題名の、この随筆は「随筆などというものが、そんなに軽いお気持で、しかも三、四枚にうまくまとまるものではない」という、随筆の難しさを説く文章から始まっている。
随筆に力を入れている作家の矜持として、「三、四枚で結構なんで、ごく軽い御気持で」などと原稿を依頼されることへの、強い反発があったのだろう。
森田たまについては「雲の上の散歩」という随筆もある。
私を森田さんのファンにしたのは日本女子大学の大原恭子さんで、私があの大学に兼務して教え始めたころ急に時間にあきができて教員室でぼんやりしていたら『竹』という随筆集を出して、これを読んで下さいといってすすめられたからであった。(福原麟太郎「雲の上の散歩」)
森田たまの『随筆竹』は、1939年(昭和14年)10月に中央公論社から刊行された。
題名の「雲の上の散歩」は、森田たま自筆の取材ノートを複製したもので、著者近影の欄にはプリントされた写真が貼り付けられている。
森田たまは僕自身も好きな作家なので、『随筆竹』や『雲の上の散歩』も、我が家の本棚にあるが、福原さんの書評を読んでから読み直すと、一層理解が深まるような気がする。
白洲正子『巡礼の旅』の書評もある。
白洲夫人の旅行記は実に上手なもので、さらに気負ったところがなく、要をつかんで、叙情に流れず、私などが旅行記を書くと、どうもセンティメンタルになっていけないのだが、このかたの、さらりとして、いかにも知性の深い、それでいて感覚の鋭い女性が、旅行を楽しんでいるところがあって美しいものである。(福原麟太郎「西国三十三カ所」)
福原さんは、かつて『日本のやきもの・信楽・伊賀』でも、白洲正子の旅行記を嘆賞しており、真の白洲正子ファンだったものらしい。
随筆本に関するものとしては、岡倉由三郎の『岡倉本・イーリア随筆』に関する文章を忘れてはいけない。
こんど帖面舎という小さな出版社から『岡倉本・イーリア随筆』という四六版の本が出た。故岡倉由三郎先生のチャールズ・ラム『イーリア随筆』からの訳やそれについての序詞や随想などを集めたもので一八〇頁ほどの小本であるが、背革天金装の美本で、三〇〇部限定、値段は一三五〇円というド・リュックス本である。(福原麟太郎「『岡倉本・イーリア随筆』」)
『イーリア随筆』は『エリア随筆』のことで、岡倉由三郎・訳の「喫茗瑣談」は、特に福原麟太郎の評価が高い作品となっている(『チャールズ・ラム伝』)。
河上徹太郎『文学的回想録』の話では、三好達治の葬式の際のエピソードがいい。
私はその日、ミロのヴィーナスの招待日で上野にいて、急いで尾崎一雄さんと一しょに青山斎場にかけつけたのであったが、ちょうど河上さんが霊前に進み出るところに間にあった。そして、その弔辞を、友情というのはこういうものだなと、うつらうつら聞いていた。(福原麟太郎「『文学的回想録』」)
『文学的回想録』には、「三好君。君は憶えているだろう」から始まる、このときの弔辞が収録されている(「弔辞と祝辞」)。
文壇との交流は少ないと言いながらも、庄野潤三や河上徹太郎を始めとする作家との交友は、実に興味深いものがある。
福原麟太郎の生きた野方町
本作「この道を行く──わが人生観」には、福原麟太郎の日常生活に関する話も多く収録されている。
「今日新しい散歩道を見つけた」という文章から始まる「散歩道」は、野方町の雰囲気が伝わってくる随筆だ。
丸山小学校の前の道を下りて河を渡って(すべて家に囲まれている)練馬側へゆくと直角にすぐ大きな道が開けていた。左折すると、その道はわりに車が通らず、お寺やお宮もあって静かである。その先にまた直角に横切っている大道が見えた。(福原麟太郎「散歩道」)
「その先にまた直角に横切っている大道」とあるのは、環状七号線のことで、この辺りが、福原さんの日常の散歩コースになっていたらしい。
丸山小学校は、現在、中野区立緑野小学校となっている。
散歩コースについては、他の随筆にも書かれている。
私の家の近くの道を散歩していたら、中学校の校地の角のところで道が二股に分れる。そこに観音様の石像が立ったり倒れたりしていた。二つは台石に載っかっているが二基は台石だけである。道しるべを兼ねたものと見えて、右なかむら道、左あら井道などと彫ってある。(福原麟太郎「篭原観音その後」)
ここにある中学校は、現在の中野区立緑野中学校のことで、中学校の角には現在も篭原観音が祀られている。
こういう随筆を読むと、福原さんの暮らした街・野方を実際に歩いてみたくなるが、福原さんの野方は、かつて本当に「野方町」という町だった。
私の番地は、中野区野方町一丁目五七六であったが、こんどは野方(町をぬいて)四丁目三九の九となった。(福原麟太郎「かわる」)
「町名番地改称となると、不可抗力のごときもの」とあるのは、野方町という「町」が消失したことの喪失感だったのだろうか。
ちなみに、野方町から「町」が消えたのは、1965年(昭和40年)のことだった。
「花見」では、善福寺へ行ったときのことが綴られている。
善福寺池というところへは行ったことがない。西北郊、西荻窪の東京女子大の裏の方である。寺の名は残っても寺はいま無いので、建立中だという。ちらほら咲いた桜並木の道を通っていると思ったら、ひょいと池が現れた。わりに小さいが、明るい池である。(福原麟太郎「花見」)
善福寺といえば、酔うと「とくとく帰れ善福寺」と言いながら酒場を後にしたという、村上菊一郎の暮らした街だ。
ボートの浮かぶ池のある公園は、賑やかながら花見の雑踏がなく、明るい春の一日という気がしたという。
善福寺池については「庭園」でも触れられているから、福原さんお気に入りの公園となったのかもしれない。
福原さん自身の本の話では、『変奏曲』という随筆集についての文章が興味深い。
出版した人はうちの娘と目白で同級生であった吉川さんという若いおくさんである。雑誌の編集にいた経験で出版をしてみようということであったから取りあえず雑文を集めて提供し、ぼくは小型の本が好きなのですといったのが縁で、右のようなものが出来た。(福原麟太郎「造本」)
このときの出版社が三月書房で、福原麟太郎の『変奏曲』は千部が完売したという。
三月書房の(特に昭和期の)随筆集を集めることは、僕自身のささやかな楽しみの一つとなっているのだが、その始まりが福原麟太郎だったとは気付かなかった。
『諸国の旅』や『春のてまり』といった福原麟太郎の随筆集は、署名本で入手した、思い出深い本でもある。
「かなづかい」という随筆では、『書斎の無い家』のことが出ている。
『書斎の無い家』という本を出して貰ったとき、はじめ「無」はムとしか読まないらしいから『書斎のない家』と書くべきであったので、そうなっていたのだが、書斎が「ない」ということが重要なのにその「ない」がかなでは力が弱いから、「無」の字をつかって貰った。(福原麟太郎「かなづかい」)
「文中の重要な意味をあらわす字は漢字にしたいと思う」とあるのが、福原麟太郎の方針ということなのだろう。
福原さんの随筆は、守備範囲が広いから、たくさん読んだからといって、飽きるということがない。
相当の知識と教養がなければ、これだけの作品を書くことは、到底できないだろうから、福原さんの随筆集は本当に凄いと思う。
逆に言うと、福原さんの随筆集を読むことで、多くの知識と教養を身に付けることができる、ということにもなるだろう。
まずは、この随筆集に出てくる本を、手当たり次第に読んでみてはどうか。
桜庭信之『ホガース論考』、金子健二『人間漱石』、大佛次郎『帰郷』、佐藤春夫『小説永井荷風伝』、豊島与志雄『豊島与志雄著作集』、ヂェイン・オースティン『自負と偏見』、石田健次『英文学のよろこび』、沖中重雄『医師と患者』、鈴木信太郎『ヴィヨン全詩集』、森田たま『ヨーロッパ随筆』、福原麟太郎『緋文字』など、その数は膨大だ。
書物というものはいくらあってもありすぎるということはないもので、もちろん、みな読んでいるということは不可能だが、読んだ本や、読まない本でも、大体何が書いてあるか知っている本、いつか役に立つと見当のついている本、さまざまを一ところに集めてあるのが自分の書庫である。(福原麟太郎「書物」)
どんなに読書家であっても、読みたいと思う本を一生涯のうちにすべて読むことは、現実的に不可能なことだろう。
熱心な読書家であるほど、読むべき本は日々増えていくばかりだからで、それでも「いつか役に立つと見当のついている本」は、やはり手元に持っておきたい。
これが「積読(つんどく)」というやつだが、「積読」も意外と大事なものなのかもしれないと思う。
特に、福原麟太郎の随筆集のような、知識と教養に溢れる本を読んだ後では。
書名:この道を行く─わが人生観 22─
著者:福原麟太郎
発行:1971/03/31
出版社:大和書房