散歩

【文学散歩】三田済海寺・永井龍男の墓と浅草神社・久保田万太郎句碑

【文学散歩】三田済海寺・永井龍男の墓と浅草神社・久保田万太郎句碑

文京区本郷にある喜福寺では、著名人の墓参りを断っているという。

久保田万太郎の墓参りをしたかったが、やむを得ない。

代わりに、浅草神社にある句碑を見学してきた。

港区三田の済海寺にある永井龍男の墓

港区三田の済海寺へ、永井龍男の墓参りに行ったときも、墓地の出入り口は施錠されていた。

雨の降る中、坂道を散々と登って、ようやくたどり着いた都会のお寺だったが、墓地へ入るには寺務所へ声をかけて案内を請わなければならない。

あくまで一介の読者の墓参り。

お寺の人の手を煩わせるまでもないと、「最初のフランス公使宿館跡の碑」を見て帰ってきた。

小説家にとって最大の供養は、その作品を読むことに尽きる。

墓参りは、作家への関心を高めるためのアプローチの一つにすぎない。

お墓に参ることができなくても残念がる必要はないのだ。

墓参りが目的になってしまっては、それこそ本末転倒というやつだろう。

浅草神社にある久保田万太郎の句碑

久保田万太郎の句碑は、浅草神社にある。

竹馬やいろはにほへとちりぢりに

建立は、1965年(昭和40年)11月7日。

慶應義塾大学の塾長だった小泉信三が沿革を綴っていて、「久保田ハ浅草ニ生レ浅草ニ人ト成ル」と書いてある。

さすがに小泉信三、けだし名文というやつだろう。

浅草神社にある久保田万太郎の句碑浅草神社にある久保田万太郎の句碑

初出は、1926年(大正15年)の『文芸春秋』。

ほぼ100年前の俳句なのに、全然古臭い感じがしない。

『万太郎の一句』の著者・小澤實は「万太郎が愛読した樋口一葉『たけくらべ』の世界が背景にある」と記している。

江戸情緒を残す浅草にこそ、ふさわしい句碑だ。

久保田万太郎の死因については、慶応病院の外科医だった石山季彦の「久保田先生の死因」(『久保田万太郎回想』所収)に詳しい。

先生の場合は、朱色の赤貝が身だけ巧みにロール形に巻いて、約二〇ミリ余りの径の気管を完全閉塞していた。多少でも人工呼吸による換気が期待された隙間が全く無かった。死因は、異物による強制窒息であった。(石山季彦「久保田先生の死因」)

1963年(昭和38年)5月6日、画家・梅原龍三郎邸で食事中だった久保田万太郎は、赤貝を喉に詰まらせて窒息死したのである。

遺体の解剖に当たった病院は、久保田万太郎の死因を事実に即し、「食餌誤嚥による気管閉塞に原因する急性窒息死」として発表した。

享年74歳。

公式死亡時刻は、午後6時25分だった。

折りしも、当日は、中村汀女が主宰する俳誌『風花』の一五周年を祝う会があった日で、亡くなる数時間前まで、久保田万太郎は、この会に出席していた。

中村汀女は、第二次句会をしていたところ、テレビで久保田万太郎の訃報を知ったという。

私はそのまま慶応病院にかけつけました。病院の混雑している廊下で、五所平之助先生とお逢いして立ち尽しました。五所先生もさきほどの私共の会にいらして下さったのでした。(中村汀女「その日」)

とかく、はかないのは人の命である。

それだからこそ、人生というものの意味があるのかもしれないが。

『風花』の会の終了後、安住敦は、慶応病院に入院中の稲垣きくを見舞う久保田万太郎に同行している。

車は青山墓地下を抜け、斎場前を通って信濃町に向かった。ここはどこです? というので墓地下です、と答えた。よく人が死にますねと、先生は呟いた。(安住敦「走り梅雨」)

わずか四か月前に、最愛の三隅一子を亡くしたのも、同じ慶応病院だった。

今、浅草は、たくさんの外国人観光客で賑わっているけれど、ここに久保田万太郎の句碑があることを知る人は少ない。

没後60年。

墓参りはできなかったけれど、記念すべきアニバーサリーの年に、素晴らしい句碑を見学することができて良かった。

三泊四日の夏休み文学散歩は、これにて終了。

今日からまた読書に戻ろう。

ABOUT ME
みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。