トーマス・マン『魔の山』読了。
本作『魔の山』は、1924年(大正13年)にドイツで出版された長篇小説である。
この年、著者は49歳だった。
生と死の境界線で生きる
村上春樹『ノルウェイの森』に、本作『魔の山』が登場している。
主人公の大学生(ワタナベ君)が、山奥の療養所に入所している恋人(直子)を見舞いに行く場面だ。
レイコさんは僕が読んでいた本に目をとめて何を読んでいるのかと訊いた。トーマス・マンの「魔の山」だと僕は言った。「なんでこんなところにわざわざそんな本持ってくるのよ」とレイコさんはあきれたように言ったが、まあ言われてみればそのとおりだった。(村上春樹「ノルウェイの森」)
トーマス・マンの『魔の山』は、主人公の青年(ハンス・カストルプ)が、山奥のサナトリウム(結核療養所)に入院しているいとこ(ヨーアヒム・ツィームセン)を見舞いにいく話だから、ワタナベ君の行動は、明らかに『魔の山』を踏襲していると読むことができる。
「魔の山」と同じように、直子の入所している「阿美寮」も、やはり生と死の境界を象徴する空間だった。
もっとも、『魔の山』のハンス・カストルプが、山の上から降りることができなかったのに対し、『ノルウェイの森』のワタナベ君は、恋人(直子)が自殺した後も生き続ける。
あえて、『魔の山』を引用することで、『ノルウェイの森』は生きることの意味を強調していたのかもしれない。
本作『魔の山』には、主人公と言うべき若者が二人登場する。
一人は真の主人公であるハンス・カストルプで(「ぼくですか……歳ですか。むろん二十四です。もうすぐ満二十四歳になります」)、もう一人は、ハンスのいとこであり、国際サナトリウム「ベルクホーフ」の先輩でもある士官候補生(ヨーアヒム・ツィームセン)である。
ハンスを表の主人公だとするなら、ヨーアヒムは裏の主人公である。
二人の生活は、一対の物語として展開していく。
軍人を目指すヨーアヒムの人生は、あたかも、ハンス・カストルプの人生の影のようだ。
完治していないにもかかわらず、ヨーアヒムは山を降りて軍隊へと入隊する。
「ハンス」と彼は切実に言った。「後からすぐおりてくるようにね」(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
しかし、「魔の山」に魅せられているハンスは、山から降りることはできない。
軍隊での無理がたたって、やがて、ヨーアヒムは山へと舞い戻ってくる。
「いや、よかったね。秋にはもう出られるんだから」と、ハンス・カストルプは、二十八号室のいとこのベッドに腰をかけていった。(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
もちろん、ヨーアヒムが健康な状態で退院することはなかった。
おそらく、彼は、自分の死を予見していたのだ。
午後七時、ヨーアヒムは死んだ。(略)部屋には母親といとこだけが居合わせた。(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
「魔の山」から抜け出ることは、簡単なことではない。
そこでは、多くの人間たちが「死」と隣り合わせで生きていた。
サナトリウムの入院患者にとって「死」は、決して特別の存在ではなかった。
「そうですとも! 私は断言しますが、死などはほとんど問題とするに足らないのです」(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
サナトリウムの院長(ドクトル・ベーレンス顧問官)は、患者たちの死を司る死神である。
彼の仕事は、末期患者を安らかに死の世界へと導くことだった。
サナトリウムの建つ「魔の山」は、「生と死の境界」を象徴する空間である。
彼らにとって、「死」は逃れることのできない、絶対的な宿命だった。
もっとも、時間の早い・遅いを別にすれば、「死」はすべての人間に与えられた、絶対的な宿命である。
時間の流れを超越した「魔の山」は、「生と死」に宿命づけられた人間の人生を圧縮して見せているにすぎない。
それは、我々が生きる世界の縮図である。
霊媒少女(エリー)は、「死」をヴィジュアル化して見せた。
「霊はもうきているか」と、アルビン氏は真面目くさった顔をしてみんなの頭越しに中空を睨みながら尋ねた。……ためらう気配が感ぜられた。(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
交霊術の会に現れたのは、いとこ(ヨーアヒム)の亡霊だった。
ハンス・カストルプは顔をあげなかった。口に苦い味がした。ほかの声が低く冷静に答えるのが聞えた。「私にはとっくに見えていた」(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
ヨーアヒムの亡霊を直視することのできないハンス・カストルプは、強制的に交霊術の会を終わらせてしまう。
ハンスにとって、ヨーアヒムの亡霊は、彼自身の亡霊でもある。
「死」をヴィジュアル化することは、彼にとって冒涜とさえ言えたのだ。
実際私たちが死ぬということは、死んでいく当人よりも、むしろあとに残る人々にとって問題なのである。(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
少年のうちに両親を失ったハンス・カストルプは、孤児として叔父に育てられた。
彼にとって死の姿を見ることも、それから受ける感動も、もはや新しい経験ではなくて、まったく馴れっこになっているものだった。(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
両親の死によって、ハンス・カストルプ少年は「死」を学んでいた。
「ぼくがどうあっても言いたいのはね、死にかけている人間というものは、その辺をうろつき回って、笑ったり、金を儲けたり、腹鼓を打ったりしているがさつな人間よりは、ずっと高尚だということなんだ」(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
本作『魔の山』は「死」についての哲学書である。
「ぼくはときどき考えるんだが、魂を高めたかったら、教会へ行くよりも葬式に行くべきだろう」(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
「死」に囲まれて生きている人々は、「死」について敏感だった。
やがて、国際的な政情不安の中で(第一次世界大戦が始まった)、ハンス・カストルプは「魔の山」を降りていく。
「ああ、君はそういう定めにあったのか。それは君であって、あの少尉君ではなかったのだ。人生はなんといういたずらをやるのだろう。……勇敢にお戦いなさい。あの、君たちの血と血がつながるところで」(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
勃発した第一次世界大戦に参戦するために「魔の山」を去っていくハンス・カストルプを見送ったのは、青年の師とも言うべきイタリア人作家(セテムブリーニ氏)だった。
長い物語の解説者としての役割も果たしているセテムブリーニの言葉は、この物語の重要なテーマを簡潔に表している(つまり「人生はなんといういたずらをやるのだろう」)。
彼自身一瞬やられたと思った。大きな土塊が脛骨に当った。かなり痛かったが、そんなことは問題ではない。彼は立ちあがり、泥だらけの重い靴を引きずり、跛をひきながらふたたび蹌踉として前進を続けて、われ知らず口ずさんだ。(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
戦場で彼が口ずさんでいたのは、サナトリウムの蓄音機で聴いた、あの「菩提樹」だった。
シューベルトの歌曲集『冬の旅』に収録されている「菩提樹」は、主人公(ハンス・カストルプ)を送る鎮魂歌であり、本作『魔の山』のエンディング・テーマでもある。
しかしそれはなんといってもおかしい。あんなにすばらしい歌が! 民衆の心情の最奥のもっとも神聖なる深みから生まれいでた純粋な傑作、何ものにも勝る宝、親密なるものの原型、可憐そのもののような歌が死を象徴するとは。(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
あるいは、ハンス・カストルプの人生は、そのまま「冬の旅」のような人生だったのかもしれない。
死と隣り合わせで生きている
トーマス・マンの『魔の山』を読んで「つまらない」とか「意味がわからない」などの読後感を持つ人は少なくない。
『魔の山』の難しさは、「とらえどころのなさ」に尽きると言っていい。
あまりも多くのテーマが、同時並列的に混沌と放りこまれているので、普通に読み流していくと、何を言いたいのか分からなくなってくる(迷子になる)。
おそらく、この小説は、何度も何度も読み返すべき作品なのだ(読み返すたびに新しい発見がある)。
そもそも、ストーリー展開を追いかける小説ではないので、登場人物の言葉一つ一つを噛みしめながら楽しむ方がストレスにならない。
社会の縮図である「魔の山」には、なにしろ、たくさんの(多用な)人々が登場してくる。
例えば、主人公(ハンス・カストルプ)が愛した人妻(クラウディア・ショーシャ)は、生と死の境界をさまよいながら人生を楽しむ、魅惑の人妻である。
彼女はハンス・カストルプの唇に接吻した。ロシア風の接吻であった。(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
女の魅力に魅せられたハンクは、彼女のいる「魔の山」から降りることができない。
ハンスにとって、ショーシャは、愛の女神であると同時に、「死」の象徴でもあった。
ショーシャに裏切られた愛人(メインヘール・ペーペルコン)は、呆気なく自殺してしまう。
「自殺?」と、彼は声を低めて専門語を使って尋ねた。「むろんです」とベーレンスは何をいまさらといった顔つきで答えて、こう付け加えた。「完璧、完全。まさに最高級」(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
メインヘールの苦しみは、ショーシャへの片恋に悩むヴェールザの苦しみでもあった。
「いったい私は何を望んでいるというのでしょう、カストルプさん。彼女を殺そうとしているんでしょうか。彼女の血を流したがっているというんでしょうか。とんでもない、私は彼女を愛撫したいだけなんだ」(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
死と隣り合わせの「上の世界」にあって、彼らは常に苦しんでいた(「このぼくをよくごらんになってください。このぼくは、もう治らない人間なんです」)。
ヨーアヒムが愛した巨乳娘(マルシャ)も、死の影を背負った陽キャである。
女教師の知るところでは、褐色の眼をしたマルシャはあの豊満な胸に、何か結核性の潰瘍を持っている由で、これまでにも何度か手術してもらわなければならなかったという。(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
「死」を抱えながら生きているということでは、マルシャもヨーアヒムも、一つの仲間だった。
そして、この物語に政治的な深みを与えているナフタと、ハンスの導き役として機能しているロドヴィコ・セテムブリーニは、本作品の重要人物である。
「いや」とナフタは続けた。「自我の解放と時代の秘密と命令などがあるのではないのです。時代が必要とし、要求し、やがては手に入れるであろうところのもの、それは──テロリズムです」(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
セテムブリーニとの決闘に破れて自殺するナフタは、全体主義の殉教者と言っていい。
「卑怯者!」とナフタは絶叫した。それは、撃たれるよりはむしろ撃つほうがより多くの勇気を要する、という事実を認めざるをえなくなった者のきわめて人間的な叫びであった。彼は決闘とは無関係なようなやり方でピストルをあげ、自分の頭に弾丸を撃ちこんだ。(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
一方のセテムブリーニは、ハンス・カストルプを「魔の山」から救い出そうとする救世主だった。
「なんども申し上げますが、卑下なさってはいけません。誇りを持つことです。見当違いの世界へ入りこまないことです。この泥沼、この魔女の島からお逃げください」(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
ナフタとセテムブリーニとの激しい論争は、ハンス・カストルプの(精神的な)成長を促していく。
「夢だとは思ったさ」と彼はほそぼそと戯言を言った。「実に魅力のある、だが恐ろしい夢だった。己には実のところずっとそれがわかっていたんだ、みんな自分で作りあげたことだ──」(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
雪山の遭難から生還したハンス・カストルプは、「魔の山」を降りて、現実世界へと舞い戻っていく。
そこは、第一次世界大戦という現実が待ち受ける、「死」の世界だった。
つまるところ、ハンス・カストルプにとって世界は、どこも「死」の世界である。
もしかすると、それこそが我々に突き付けられた現実だったのではないか?
「死」を受け容れて生きていくことの苦悩が、この物語にはある。
「さあ、夏も終わりだわね。あれで夏といえたらの話だけど。あたしたち、夏をごまかし取られちゃったのよ。大きく言って、一生をごまかし取られちゃったようにね」(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)
ヘルミーネ・クレーフェルトの言葉は、この物語を象徴していた(「このうえまだこんなふうに生きていかなくちゃならんとはね」というゲンザーも言葉とともに)。
本作『魔の山』は、生と死の境界線を舞台にした、人生の教科書である。
人間は死と隣り合わせで生きているということを、我々はもっと知るべきなのではないだろうか。
書名:魔の山
著者:トーマス・マン
訳者:高橋義孝
発行:1969/02/25(2005/06/25改版)
出版社:新潮文庫
