古いものしかないのに、新しい発見がある場所。
それがアンティーク・ショップだ。
別に高価なものを買うつもりはない。
心の琴線に触れたものを、素直に買って帰ればいい。
それが、例えば、昭和時代の子どもたちが文字を学ぶために使った積み木のハンパものであったとしても。
「それは、昔の文字遊びの札ですよ」
この店では、時々こういう楽しい出会いがあった。
これ、買う人いるの?と思うようなものを平然と売っている。
「ちゃんと売れるんですよ」と、女性店主は笑いながら言った。
「今日もちゃんと売れたしね」
買ったのは僕だ。
懐かしい匂いのするものが好きだった。
自分が生まれる前の時代に、子どもたちが遊んでいただろうアイテムは特に。
とりわけ、女の子の遊び道具を見ると、胸がときめく。
前世では女の子だったのかもしれない。
小さな木の札に書かれた絵柄を見つけたときも、胸がどきんと鳴った。
<てれびじょん>と<るびー>と<なまず>。
「それは、昔の文字遊びの札ですよ」と、女性店主が教えてくれる。
昔の子どもたちは、こんな積み木で、平仮名を覚えていったのだ。
そう言えば、昔、自分の家にも、こんなオモチャがあったかもしれない。
愛らしいイラストを見て言葉を覚え、言葉と一緒に平仮名を覚えた。
そうだ、こんな積み木が我が家にも確かにあった。
あの積み木は、いつ捨ててしまったのだろう。
うさぎにらくだにゆきだるま。
「文字あそび」の平仮名積み木は、今も残る伝統的な学習玩具だ。
特別に珍しいものではない。
だけど、昭和時代、特に昭和30年代に作られた積み木は、デザインが良かった。
リアルというよりも適当に書かれた感じで、「言葉を学ぶ」という緊張感がない。
むしろ、全身の力が抜けていくようなリラックス感がある。
思わず笑ってしまう癒しがある。
僕が笑うと、一緒に女性店主も笑った。
「文字あそび」は、五十音すべての札が揃った状態で、箱に入って売られている。
ハンパものは、通常の場合、商品にはならない。
そんなハンパものをバラで売るのを、この店は得意にしていた。
一枚50円、あるいは2枚で100円といった具合に。
もちろん、何に使うという宛てもない。
彼女は、そんな心の癒しを売っていたのかもしれない。
そして、僕もまた、そんなハンパものを集めることが好きだった。
完全なものを求めるのではないから、気軽に買い物もできたのだろう。
「そんなの買ってどうするんですか」
僕が買い物をするたびに、彼女はいつだって笑った。
彼女は知っていたのだ。
僕のツボを。
僕が買うだろうということを分かっていて、彼女は、こんなオモチャをちゃんと並べておいてくれたのだ。
手描きの温かさがあった昭和の積み木
どのデザインにも、手描きの温かさがある。
子どもたちのために描いているという誠実な優しさがある。
それが、日本の昭和30年代という時代だった。
暮らしは貧しくても心が豊かだった時代。
そんな時代には、貧しいということは、それほど重要な問題ではなかったのかもしれない。
みんなが貧しかったから、みんなで一緒に生きていくことができたのだ。
小さな一枚の木の札に、子どもたちの将来を願う父母の慈しみがある。
貧しい暮らしの中にも、未来への明るい希望があったように。
昭和30年代から40年代にかけて、こんな文字遊びの積み木が、どこの家庭にもあった。
多くの商品は、木製玩具で有名な「ニチガン」が製作したものだった。
「ニチガン」は、戦前から木製のおもちゃを作り続けてきた玩具メーカーである。
どこの家庭にもあったおもちゃだから、戦後の「もじあそび」は決して珍しいものではない。
揃いになった箱詰めのセットを、僕も何種類も持っている。
だけど、本当に愛着が沸くのは、こんなばら売りのハンパものだったりするのかもしれない。