村上春樹は、とても人気のある作家である。
同世代のみならず、若い世代からの支持も厚く、多くの作品がベストセラーになっている。
国語の教科書には村上春樹の(様々な)作品が掲載され、多くの中高生が村上文学と格闘している。
さらに、その作品は世界中で翻訳出版されており、毎年のように「ノーベル文学賞の候補作」として騒がれていることは、もはや風物詩とさえ言っていい。
今や、村上春樹は(とりあえず名前だけは)誰もが知っている小説家なのだ。
なぜ、村上春樹の小説は、こんなにも人気があるのだろうか?
その人気の背景をまじめに考察してみた。
※写真は、『プレイボーイ』1986年(昭和61年)5月号からの引用
喪失感──癒されることのない渇き
村上春樹の小説では「喪失感」がテーマになっていることが多い。
村上春樹の小説の主人公は、いつでも、妻や恋人に逃げられたり(『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』『ねじまき鳥クロニクル』)、恋人や友人を自殺で失ったり(『羊をめぐる冒険』『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』)、恵まれない家庭環境で育ったりしている(『海辺のカフカ』『1Q84』)。
あるいは、それほど大きな「喪失感」ではなくとも、日常の中で感じるささやかな「モヤモヤ感」は、村上春樹の小説に「なくてはならない」テーマとさえ言っていい。
言い方を換えると、それは、我々が生きていく中で常に感じている「癒されることのない渇き」でもある。
特に先行き不透明な現代社会にあって「個人的な空白」は、「社会的な空白」と調和しながら広がり続けていくものだ。
こうした空白(隙間)が生みだす「渇き」こそ、村上春樹の小説が、多くの読者から支持される大きな理由となっているのではないだろうか(つまり、みんな「孤独」なのだ)。
1980年代の初期の作品、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』あたりまで、この「渇き」は、1970年安保闘争を戦った若者たちの「世代的な喪失感」として受容されていた。
しかし、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』と書き続ける中で、村上春樹の小説は、人の心の中に潜む「闇」をどんどんと深く掘り下げていく。
「心の闇」は、やがて「歴史の闇」や「家族の闇」にまで達していくことは、村上春樹の小説が示しているとおりだ。
心の「闇」を感じない人間などいない。
心の闇に対する不安が、村上春樹の小説では主人公の「渇き」として描かれており、読者の共感を呼んだものと考えられる。
乾いた空気感──非日本的なコミュニケーション
一方で、「喪失感」や「渇き」といった欠乏を描きながら、村上春樹の小説にはジメジメしたところがまったくない(ドライだ)。
「去る物は追わず、来る者は拒まず」という主人公たちのスタイルは、いかにも現代的な人間関係を象徴しているかのようだ。
こうした「非日本的なコミュニケーション」は、デビュー当初から文芸批評家たちによる攻撃の的となった。
例えば、内田樹『村上春樹にご用心』(2007)にも、そのことに言及したエッセイがある。
松浦 言葉にはローカルな土地に根ざしたしがらみがあるはずなのに、村上春樹さんの文章には土も血も匂わない。いやらしさと甘美さとがないまぜになったようなしがらみですよね。それがスパッと切れていて、ちょっと詐欺にあったような気がする。うまいのは確かだが、文学ってそういうものなのか。(内田樹「なぜ村上春樹は文芸批評家から憎まれるのか?」)
ここで文芸批評家は「村上春樹さんの文章には土も血も匂わない」「文学ってそういうものなのか」と、村上春樹の姿勢に疑問を呈している(対象は『東京奇譚集』2005)。
しかし、現代読者の多くは「土や血の匂う」文学作品を求めているわけではない。
彼らは、日常生活の中で抱えている「渇き」への共感を求めているのであり、彼らの「渇き」は、いわゆる日本的な「しがらみ」とは相容れないものだ。
村上春樹の小説に描かれる「一見、突き放したような人間関係」は、彼らにとっては、むしろ「適度な距離感」とさえとらえられている。
コスパやタイパを重んじる現代社会は、「根性」とか「努力」といった曖昧な精神性よりも、村上春樹の「やれやれ」という言葉に象徴される「無抵抗感」を尊重しているのではないだろうか(あるいは「あきらめ」)。
村上春樹の小説が好きか嫌いかといった評価は、ここで大きく分かれる可能性がある。
心の渇きに対して「血」や「汗」といった(ドロドロとした)モチーフからアプローチしたい人に、村上春樹の小説は、いかにも物足りないと感じられるからだ。
これは、小説に対する好みというよりも、既に「人間としての生き方」と密接に関わるものだとさえ言っていい。
ドライ・タッチなコミュニケーションは、現代社会の「孤独」とも無関係なものではない。
「渇き」と「乾き」は、村上春樹の人気を読み解く上で、重要なキーワードとなっているのである。
意味不明──答え合わせのない不安
村上春樹の小説は平易な日本語とわかりやすい文章で書かれている(なにしろ、中学校や高校の国語の教科書に採用されるほどだ)。
そして、小説の中には親しみやすい「大衆文化(ポップカルチャー)」がいくつも登場する。
それは、ビートルズだったり、ビーチボーイズだったり、ボブ・ディランだったり、デュラン・デュランだったりするが、こうしたカジュアルなディテールも、村上春樹の小説の親しみやすさを高める仕掛けとなっている。
つまり、村上春樹の文学世界は、とても「わかりやすい」はずなのだ。
にもかかわらず、村上春樹の小説は難しい。
読み終わった後には「意味不明」「意味が分からない」といった感想が、ネットに溢れてくる。
それはなぜか?
村上春樹の小説には「答え合わせ」が用意されていないからである。
デビュー当時から一貫して、村上春樹は、小説の解釈は読者に委ねるべきだと主張してきた。
村上 うん。だから意味づけしても意味がないと僕は思うんですけどね。(略)だから、相手が自分を理解してると思ってかかってきたら、それをもう一度どんどん、どんどん裏切って、裏切っていくのが力になるわけです。表層的誤解をばらまいておけば、仕事はやりやすいんですよ。(PLAYBOYインタビュー/『プレイボーイ』1986年5月号)
「なぜ、そうなったのか」「それから、どうなったのか」といった疑問に対する「正解」は、小説の中にも書かれていないし、作者によって解説されることもない(「意味づけしても意味がないと僕は思うんですけどね」)。
ここにも、村上春樹の小説の人気の秘密がある。
そもそも「答え合わせのない小説」は、文学シーンにおいては珍しいものではない。
というよりも、読者の想像を促す「オープンなエンデエィング」こそ文学の醍醐味であり、正解と解説が用意された「クローズドなエンディング」は、読書としては、むしろ物足りないものだとさえ言えるのである。
正解のない村上春樹の小説は、自分の中で「答え合わせ」をする楽しみがある。
神話的・ファンタジー的な要素も多く、カジュアルな小説なのに内容は深いから、何度でも読み返すことができるし、読み返すたびに新しい発見があるところもいい。
正解のわからない「モヤモヤ感」は、小説のテーマである「渇き」とも共鳴しているから、読者は自分の心の底を深く掘っていくように、小説の世界を掘り続けなければならない。
そもそも「心の闇」を描いた小説が、そんなに簡単なものであっていいはずがない。
村上春樹の小説を読むことは「自分自身を探すこと」でもあるのだ。
だから、村上春樹の小説は「分かりそうで分からない」ところに、その魅力がある。
「謎の多い女に(あるいは男に)人は惹かれる」と、昔から言われていたことを思い出してほしい。
決して解明できない「謎」が残るからこそ、村上春樹の小説は人気があるのだ。
まとめ
村上春樹の小説は、なぜ、人気があるのか?
理由は次の3つである。
①主要なテーマである「喪失感」への共感
②ドライな人間関係への共感
③カジュアルなのに謎が多い
なお、村上春樹の人気の秘密については、多くの文芸評論家による考察もある。
人気があることを含めて、村上春樹という作家には「謎」が多いということなのだろうか。
それもまた「村上春樹」の魅力なのかもしれない。

