文学鑑賞

井伏鱒二「七つの街道」まるで小説のように楽しく読める旅行記

井伏鱒二「七つの街道」

井伏鱒二「七つの街道」読了。

本作「七つの街道」は、1956年(昭和31年)6月から1957年(昭和32年)4月にかけて、『別冊文藝春秋』に発表された旅行記である。

連載開始の年、著者は58歳だった。

作品集としては、1957年(昭和32年)11月に文藝春秋新社から刊行された『七つの街道』に収録されている。

なお、「『奥の細道』の杖の跡」だけは、1952年(昭和32年)10月『別冊文藝春秋』に「『奥の細道』の一週間」として発表されたもので、1953年9月に要書房から刊行された『點滴』に収録されている。

生き生きとした登場人物たちとの会話

『七つの街道』は旅行記ながら、まるで小説のような味わいを持った作品である。

登場人物が生き生きとしていて、特に会話文がいい。

例えば「天城山麓を通る道」で、井伏さんは投網でウグイを捕まえて、南豆荘という宿屋へ持って帰る。

女主人は「おや、大きなウグイ。ほんとにお上手で御座いますこと」と、心から感じ入ったように賞賛したが、井伏さんが風呂に入っているとき、調理場から女主人の独り言が聞こえてきた。

「まあ、お前は可哀そうに、なんて馬鹿な魚なんでしょう。どうせへたくそな投網だもの。鮎は上手に網から抜けるのに、お前は間抜けだからこんな目に遭うのだよ。ウグイの塩焼なんて、お前だって食べられるとは思わないだろうね」(井伏鱒二「七つの街道」)

まるで、作ったような話でおかしい。

この南豆荘の女主人は、かなりキャラクターの立った人物だったらしい。

キャラの立った登場人物といえば、「近江路」の冒頭に登場するタクシーの運転手もおもしろい。

駅前から車に乗って、運転手に「木屋町の大文字家に行ってくれ」と言うと、「その家は何を商売する店でっしゃろ」と言った。「宿屋さんだ。運転手さんは京都の生れではないのかね」と聞くと、「私は京都の生れどす。外泊せえへんから、そんな家なんか知りまへん」と言った。(井伏鱒二「七つの街道」)

宿屋に到着するまでの珍道中が、旅行記の一部として、しっかりと描かれている。

「『奥の細道』の杖の跡」では、農家で古い写経を買う場面がある。

「写経なんか、うちには無い。この辺には、どこにもない」と断られても、井伏さんは、冷静に男を説得している。

そこで私と親父さんは、次のような会話を取りかわした。「では、せっかく選挙に行ってたのに、すまなかったね、わざわざ帰って来てもらったりして。しかし選挙は、自由党に投票したかね」「政友会にした」「その政友会員、きっと当選するよ。もし、僕に写経を見せてくれたらね」「そうか、まあ上れ」(井伏鱒二「七つの街道」)

教育委員会の教育委員が、まだ公選制だった時代で、農家の男はその投票から帰ってきたところだったのだが、「その政友会員、きっと当選するよ。もし、僕に写経を見せてくれたらね」「そうか、まあ上れ」という二人のやり取りが、まるで小説である。

もちろん、『七つの街道』は、街道をたどることで、地域の歴史や風土を掘り下げようという、極めて真面目な企画である。

ただ、こういう脇の話までおもしろいところが、井伏鱒二の旅行記なんだろうという感じがした。

普通の旅行記では感じられない発見

土地の歴史を調べるだけなら本を読めばいい。

井伏さんは、地域の詳しい人に話を聞きながら、本を読んだ上で、現地を歩いてみる。

人の話や本に書いてあることを、そのまま信じるというよりも、自分の目で見た直感を大切にしようとする信条のようなものが感じられる。

「近江路」の中に、近江八幡を昼飯を食べたとき、八百屋で買い物をする美しい女性のことに触れられている。

湖畔の町だから、八百屋でも生きのいい小鮎を売っていた。一束のワケギを解いて、二本だけ買っていく年ごろの美しい女がいた。そういう風に買物をする風習が残っているところだろう。古めかしくて落着いている町だと思った。(井伏鱒二「七つの街道」)

年ごろの美しい女に気を取られることは珍しくないが、「一束のワケギを解いて、二本だけ買っていく」という描写に、井伏さんの観察眼が伝わってくる。

そして、こうした庶民の暮らしから「そういう風に買物をする風習が残っているところだろう」と推察していくところが、井伏さんの旅行記というものなのだろう。

普通の旅行記では感じられない発見が、いくつもある。

「甲斐わかひこ路」では、河口湖や西湖あたりの暮らしについて紹介されている。

河口湖と西湖の間あたりでは、作物といっては玉蜀黍ぐらいなもので、笊をつくって行商に出かけるのが昔から村のしきたりになっている。西湖の西南にあたる土地は、ここも玉蜀黍が主要農産物で、戸主や若い者は遠国へ反物の行商に行く。九州の方まで行く者もある。家に帰って来るのは正月かお盆だけである。(井伏鱒二「七つの街道」)

こういう旅行記を読んでいると、昔の日本は、本当に広かったんだなと思う。

土地土地に様々の風習があって、それを当たり前として生きている地元の人たちがいた。

情報が発達し、文化が均一化された現代では、きっと味わうことのできない感動が、旅にはあったことだろう。

その感動を、井伏鱒二の文章で読むことができる。

そのことこそが、現代に残された、僅かな贅沢というものではないだろうか。

作品名:七つの街道
著者:井伏鱒二
書名:井伏鱒二自選全集(第九巻)
発行:1986/06/20
出版社:新潮社

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。