文学散歩・聖地巡礼

【時空標本】野田宇太郎が雑誌『文学散歩』に託した「日本文学の復興」を読み歩く

野田宇太郎が雑誌『文学散歩』に託した「日本文学の復興」を読み歩く

「文学散歩」という言葉は、野田宇太郎の著作名から定着した戦後の新しい言葉である。

戦後復興の中、「文学散歩」は日本文化の価値観を再認識するためのツールでもあった。

1961年(昭和36年)には『文学散歩』という文芸雑誌まで創刊されて、「文学散歩」は人々の暮らしの中へさらに定着していく。

そんな「文学散歩」の持つ文学的意義とは、どのようなものだったのか?

今回は、野田宇太郎の主宰する雑誌『文学散歩』をもとに、「文学散歩」の持つ文学的意義を独自の視点から考察していきたい。

「文学散歩」の本当の目的とは?

文芸雑誌『文学散歩』は、1961年1月、野田宇太郎によって創刊された。

「文学散歩」という題名は嘗て私が自分のささやかな著述に冠したものでしたが、それが十年の歳月を経る間に普通名詞のようになってしまいました。そして「文学散歩」を中心に各方面で文学地理の研究という分野がひらかれるようになりました。(野田宇太郎「創刊の言葉」/『文学散歩』1961/01)

エンターテイメント文学が隆盛を誇る一方で、野田宇太郎は純文学の在り方に疑問を持っていたらしい。

真実の文学はかえって影をひそめ、民衆は美と善とを喪いつつあるというのが事実のようです。営利や打算に結びついた読み物ばかりが流行するのは、それだけマス・コミによる読者奴隷が多くなっていることでもありましょう。(野田宇太郎「創刊の言葉」/『文学散歩』1961/01)

野田宇太郎にとって、だから『文学散歩』の創刊は、日本文学という牙城を守るための積極的な行動の一つであったとも言える。

『文学散歩』は会員制の同人雑誌だったが、従来の日本文学に愛着を感じている多くの市民が、この企画に参加した。

野田宇太郎にとって「文学散歩」は「科学」である。

散歩といえば足です。足といえば実証です。実証は科学です。そのように真実の文学を愛し、探究し、育てようとする同士のためにも文芸雑誌『文学散歩』は大切な共同機関ともなり、祖国の文化風土をよりよく理解するのに役立つと信じます。(野田宇太郎「創刊の言葉」/『文学散歩』1961/01)

「歩くこと」に対する強い信念は、詩人・木下杢太郎の言葉によって培われたものだ。

私は十年前の『新東京文学散歩』から一連の文学散歩を書きはじめたが、私の書きたいものを書くためには焼土の中を歩き、文献資料の中を歩いてそれをこの手と足で実証するよりほかはなかった。(野田宇太郎「創刊の言葉」/『文学散歩』1961/01)

マスコミによって発信される一方的な情報を受けるだけではなく、自ら文学の世界へ歩きだすこと。

それが、野田宇太郎の提唱する「文学散歩」の、本当の目的だった。

「古い伝統」と「新しい文化」との衝突

文芸雑誌『文学散歩』には、当世一流の文学者たちが寄稿している。

例えば、1961年2月号には、カポーティ『ティファニーで朝食を』の名訳で知られるアメリカ文学者・龍口直太郎のエッセイがある。

いったいボルティモアの町は薄ぎたないところだが、とくにきたない下町の街角に、ちっぽけな墓地があり、そこにポウ夫妻は葬られているのだ。(龍口直太郎「アメリカの文学散歩」/『文学散歩』1961/02)

日本の『文学散歩』雑誌に、アメリカ文学の話が出てくると、ちょっと意外な気もするが、この雑誌には海外文学に関する記事も多い。

それは外国文学を読むことによって得られる「日本文学への理解」を意識したものだったのだろう。

1961年5月号にも、英文学者・福原麟太郎による「平田禿木の南英」という海外考察がある。

平田禿木は岡倉由三郎と並んで知られる明治期の英文学者で、福原麟太郎の親しい師でもあった。

福原麟太郎は、平田禿木の書いた多くのエッセイの中から、イギリスに対する著述をまとめて、南英時代の禿木の生活について考察している。

夫人が「まあ、新しい月が」と叫ぶと禿木もキャスリーンも「良いこと」と殆ど同時に答えた。コオンウォオルの民俗では、若い娘が右肩越しに新月を見ると吉運、左肩越しは凶運、真向うに見ると、その月の欠けるまで幸運という言い伝えがあるのだという。(福原麟太郎「平田禿木の南英」/『文学散歩』1961/05)

もとより、明治時代の日本文学は、伝統あるイギリス文学の大きな影響を受けながら発達したものだったし、戦後の日本では、戦勝国アメリカの文化が、猛烈な勢いで輸入されつつあった。

文学散歩の中にさえ「古い伝統」と「新しい文化」との衝突がある。

それが戦後復興の道を歩む「ニッポン」という国の現実だったのだ。

小説だけでは理解できない「地域性」を読む

『文学散歩』1961年7月号の特集は「北海道」だった。

高度経済成長を背景に1961年から始まったレジャーブームは、遥か北海道に対する国民の関心をも強くさせていたらしい。

更科源蔵や森田たま、和田芳恵、宮崎郁雨など、北海道にゆかりのある文学者たちの名前が目次に並んでいる(なぜか北海道知事・町村金五の寄稿まであった)。

大正時代に道東から道北を巡った長田幹彦は、開拓地で生きる男たちの姿を回想している。

僕は岩内から石狩川の川口へかけての漁場を思い出すと何かしら今でもぞッとする。あの浜辺の荒ッぽい売春風景は実にすごかった。(長田幹彦「さいはての国」/『文学散歩』1961/07)

女性の少ない開拓地では、貴重なゴケ(売春婦)を奪い合って、殴り合いの喧嘩などは当たり前だったという。

随筆家として人気の森田たまは、札幌出身の女流作家だった。

有島先生は、はじめ豊平川の向うの平岸村に住み、その後北八条の北大に近いところに新築して住まわれたようである。このお家はどこかの会社の寮となり、有島寮という名がついて、いまも誰かが住んでいるらしい。(森田たま「札幌」/『文学散歩』1961/07)

札幌の文学散歩に、有島武郎は欠かすことのできない存在だ。

「長万部(オシャマンベ)村字訓縫(クンヌイ)」出身の和田芳恵「ふるさとクンナイ」もいい。

私の小学校の同級生にかあいいアイヌの娘がいた。鮭の皮でつくった足袋のような靴をはいて、みぞれ雪をふんで川向うの部落から通ってきた頃から、妙に私はこの娘に心ひかれるようになった。(和田芳恵「ふるさとクンナイ」/『文学散歩』1961/07)

戦前、東京の警察に虐殺されたプロレタリア作家・小林多喜二は、小樽市郊外で少年時代から青年時代を過ごした。

だが、多喜二は、「四つの年から二十年もの間『地区』で育った」(『地区の人々』)のだった。蒼ぐろくトロンと澱んだ勝納川を境に小樽市から孤立しているこの地区は、どん底の部落であり、糞尿の樽が並び黒い雨が降った。(進藤純孝「最果の呻き─小林多喜二と北海道─」/『文学散歩』1961/07)

小説を読むだけでは理解できない「地域性」が、文学にはある。

その地域性を理解し、作品理解を深めようとする行為が、文学散歩だったのかもしれない。

道東の開拓農家に育った詩人・更科源蔵は、北海道文学の系譜を丁寧に辿っている。

年代ははっきりしないが、十勝十弗にある牧場に佐藤春夫が遊んだのもこの頃のようである。現在も彼の実弟が十弗郵便局長をしている。(更科源蔵「さいはての文学碑」/『文学散歩』1961/07)

現在、豊頃町十弗には、佐藤春夫の文学碑が建てられている。

『ロビンソンの末裔』取材のため、開高健が来道したのは1959年のこと。

十二月も終わろうとする頃開高健が牧羊子夫人と、大切山麓の開拓地に入って、そこで新年を迎えた。戦争で東京を焼き出された戦災者が、藁を掴む思いで荒れた開拓地に生きる姿を書いた「ロビンソンの末裔」が発表されたのは三五年である。(更科源蔵「さいはての文学碑」/『文学散歩』1961/07)

現代であれば、『羊をめぐる冒険』取材のため、村上春樹夫妻が道北・士別市を訪れたことなども、この文章の中に織り込まれたに違いない。

失われつつある日本文化の復興

『文学散歩』は、随筆雑誌としての側面を強く持っていた。

様々な人気作家のエッセイが、文学散歩をテーマに掲載されている。

私小説作家・上林暁は、少年時代の回想を発表している。

私が中村中学一年の折り、渡川の川原で、入田に墓のある堺事件の人の五十年祭を記念する奉納相撲が催されたことがある。私は寄宿舎を出て、それを見に行った。(上林暁「渡川畔の流刑地」/『文学散歩』1962/04)

作家の記憶の中にある「文学」もまた、「文学散歩」の重要なテーマだった。

1963年「18号」は「隅田川」を特集している。

野田宇太郎の「それでも隅田は流れている」という詩が、そのまま特集になったものらしい。

戦争が終って
生きのびた「日本人」は奢りに走り恥を忘れ
江戸の江の字を忘れたとき
隅田川の眼はまたかくれた

行きずりの人が鼻を摘まんで鼻声で呟く
──隅田川は腐った
──隅田川は無頼の「日本人」に殺された

それでも隅田は流れている
生きているから小さい声で
東京の河岸を撫で撫でうたっている
盲いた母の子守唄
盲いた母の子守唄

(野田宇太郎「それでも隅田は流れている」」/『文学散歩』18号/1963)

文学散歩の大義は、失われつつある日本文化の復興だった。

隅田川は、日本人が持つ「心の故郷」の象徴である。

多くの作家にとっても、隅田川は特別の思い出だったに違いない。

広島県福山市出身の福原麟太郎は、東京大学の学生として東京の人となった。

それから二十歳ちかくのころ、東京の学生になって、制帽をかぶって見る隅田川が、はじめて現実の隅田川になるのだが、一ばん古い思い出は、吾妻橋を渡ってすぐのところにあった煉瓦のビール会社である。あれはサッポロ・ビールであったのであろうか。(福原麟太郎「わが隅田川」/『文学散歩』18号/1963)

長崎市出身の佐多稲子も、上京組の一人である。

十一才のとき上京して住いを定めたのが向島小梅町であったから、あの辺りはなつかしい。借家は二度三度替ったけれど、廿才のときまで川向うに住み、三年間の通勤も、朝夕吾妻橋を渡った。(佐多稲子「おもい出すことあれこれ」/『文学散歩』18号/1963)

山梨県出身の仏文学者・青柳瑞穂は、慶応大学の学生として東京生活を始める。

その人の家のまわりに、朝鮮人バラックといわれた一群の小屋があって、それは焼け残ったものか、あらたに建てかけたものか、さだかに記憶はないが、あたりは真暗で、相逢うには適当の場所であった。(青柳瑞穂「水のにおい」/『文学散歩』18号/1963)

失われた記憶を掘り起こし、文章という形で記録しておくこと。

それも「文学散歩」の持つ、大きな意義だったに違いない。

文学を忘れないことというミッション

『文学散歩』をいう文芸雑誌を読んで気がつくことは、「文学散歩」とは決して観光旅行ではない、ということである。

戦後、多くの地域が文学を観光素材として利用し、観光客を呼び集めようとした。

各地に文学碑が乱立されたのも、あからさまな文学の商用利用だった。

伝統的な文学を愛する人たちによるレジスタントが、この『文学散歩』という文学活動だったのではないだろうか。

彼らは古い文学資料にあたり、実際に作品舞台を訪れ、土地の人々と交流を持った。

文献に残されていない歴史は、記憶の中から掘り起こされて、新しい文学資料として生まれ変わった。

そうした活動のすべてが、つまり「文学散歩」である。

文学を愛する同好の士たちは、広大な文学世界を自由に渡り歩いた。

文学を忘れないことこそが、彼らに与えられた、たった一つのミッションだったのだ。

あれから60年以上の時が経ち、文学はますます「文学」としての姿を失いつつある。

我々に必要なものは、今こそ「文学を散歩すること」だったのではないだろうか。

重治の家指されしが新樹のみ 山口誓子

中野重治の旧家は、既になかったかもしれない。

しかし、本当に大切なことは「そこに中野重治が生きていた」という記憶を持ち続けることなのだ。

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