野田知佑「のんびり行こうぜ」読了。
本作「のんびり行こうぜ」は、1986年(昭和61年)7月に小学館から刊行されたエッセイ集である。
この年、著者は48歳だった。
初出は、アウトドア雑誌『ビーパル』(連載)。
自由に死ぬことを重視するアウトドアズマン
野田知佑は、1990年代における日本アウトドア界のカリスマである。
野田知佑をカリスマ化するにあたり、大きな役割を果たしたのが、本作『のんびり行こうぜ』を始めとする『ビーパル』の連載エッセイだった。
本作『のんびり行こうぜ』は「こぎおろしエッセイ」である。
「琵琶湖でカヌーを漕いで竹生島に渡り、その夜は湖畔の砂浜で焚火の酒盛り、酒池肉林ってのをやりませんか」と、カヌー弟子の椎名誠がいってきた。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
野田知佑はカヌーイストである。
自然の中に生きる男だ。
川があるから下る。山があるから下る。海があるから渡るのだ。難しい理由づけは不要。面白いからやるのである。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
野田知佑という生き方に、難しい理由はいらない。
なぜなら、自由に生きることこそ、野田知佑という生き方だったからだ。
欧米ではカヤックによる大西洋横断、太平洋横断を試みる人が昔から多い。もちろんその中の大部分は死ぬが、それは本人の意思で死ぬのであり、冒険で死ぬ自由が認められている。日本にはそれがない。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
自由に生きるということは、自由に死ぬということでもある。
野田知佑は、自由に死ぬことを重視するアウトドアズマンだった。
われわれは危険を承知で川を下る。だから死ぬ時は「納得ーッ」と叫んで死ぬのである。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
自由に生きることが、大人の証明だと考えていたのかもしれない(「若い男がカヌーを漕いで海で死ぬのはそう悪い死に方ではないと思う」)。
「もしぼくがこれからグリーンランドまで行くといったらどうする?」「ぼくの持っている北極海の情報を全部君に与えて、グッドラックという。それだけだ。九十パーセント君は死ぬだろうが、それは君の問題だからね」(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
野田知佑は、偽善を許さない。
そんなに魚が可哀そうなら、三本フックを一本にして釣ればいいのだ。そんなに魚を愛しているというのなら、そもそも釣りなんかやるな。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
キャッチ&リリース派の釣り人が、殊に野田知佑と衝突した。
ぼくがモリで突いたり、ブン撲ったりして魚を獲ると、”残酷だ”、”魚が可哀そうだ” などと馬鹿なことをいう奴がある。特にキャッチ&リリース派の人に多い。どちらが残酷か、よく考えてみろ。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
野田知佑にとって、キャッチ&リリースという理論は、偽善にしか見えなかったのだ。
手モリで40cm大のブラックバスを五匹仕止めた。この魚は内臓が少なく、肉が多くて、塩焼きにすると美味い。“キャッチ&塩焼き” これがぼくのブラックバスに対する基本姿勢だ。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
当時、多くの釣り人は、キャッチ&リリースという理論の意味を正しく理解できているわけではなかった。
彼らは、ただ「リリースしなければならない」という刷り込みで、魚釣りをしていたにすぎなかったのだ(残念ながら)。
だから、「そんなに魚を愛しているというのなら、そもそも釣りなんかやるな」と言われると反論できない。
諸君、人間に較べたら、魚なんてたいしたことはないのだ。どんどん殺して食っちまおうではないか。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
野田知佑の読者は、野田知佑の小気味いい文章に魅了された。
最も大きな敵は、日本という国家だった。
事故があると、全く関係のない国や市町村の責任にしたがる馬鹿な人間どもと、そんな下らない世論を気にして、世間体を取りつくろうことだけに熱心な警察。そして、限りなく憂うつなことに、そんな程度の低い連中が動かしている部分がこの世の中には結構多いのだ。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
おそらく、野田知佑は、日本を愛していたのだ。
愛する日本のだらしなさに我慢ができなくて、彼は、あえて厳しい言葉で世の中を正そうとした。
常日頃、若いモンは軟弱だ、とか、意気地がない、などといいながら、若いモンが勇壮なこと、冒険をやろうとすると、今度は危険なことをするといって非難するのだ。軟弱でだらしがないのだ大人たちではないか。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
野田知佑が、乱暴な人間だったというわけではない。
彼は、知識人であり、実践家だった。
本屋まで三里、という所だから、読むものがなくなったら昔読んだ本をまた読む。良い本は何度くり返して読んでも面白さは変らない、ということを田舎に来て再認識した。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
彼にとっては、カヌーで川を下ることも、本を読むことも、釣りをすることも、すべて人生の楽しみだったのだ。
われわれは星を見て宇宙の話をすることを好む。川辺の朝霧や森の中の静寂や匂い、鳥の鳴き声について語るのを何よりも好む。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
程度の低い日本人という存在にこそ、彼は苛立っていたのかもしれない。
岳少年とカヌー犬ガク
野田知佑は、孤独を愛するカヌーイストである。
同時に、彼の周りには、いつでも友人たちが集まっていた。
冬休みに入ると、岳少年(十一歳)が、釣り竿の叩き売りのような格好をして亀山にやって来た。「お前、そんなにいっぱい竿を抱えて来て、いったい何を釣るつもりだ」(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
椎名誠の長男(椎名岳)は、野田知佑の「親友」である。
食後、椎名と岳がプロレス『千倉大会』を始めた。椎名家にはチャンピオンベルトが三本あって、NWA、AWAなどと凄い名前がついている。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
椎名家のプロレス事情については、椎名誠『岳物語』(1985)に詳しい。
本作『のんびり行こうぜ』は、『岳物語』番外編として読むこともできるのだ。
岳が、「ああーっ」と叫び声をあげた。新しく掘り返された川岸の上にブルドーザーがどっかりと座っていた。川が大きく曲り、流れがつき当る所が岳が夢にまで見ていた穴場だった。去年、淵だった所はきれいに埋められて浅くなっていた。「ああ、ひどい。ひどいよ」(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
釧路川の川下りは、このエッセイ集のクライマックスである。
野田知佑と椎名岳と渡辺一枝(岳の母親)の三人が、釧路川をカヌーで下る。
釧路川の開発は、ものすごいスピードで進んでいるから、川は昨年の川ではない。
去年、この川に来た時、余りに川が壊されているので腹を立て「二度とくるものか」と書いたが、ぼくは日本の川の中では釧路川が一番好きである。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
釧路川は、北海道の中でも、特別の存在である。
釧路湿原という特別のフィールドが、釧路川という川を特別の存在としている。
矢口高雄『釣りキチ三平』で、主人公(三平少年)がイトウ釣りをしたのも、この釧路川だった。
岳少年にとって、釧路川の開発は、大きなトラウマになったことだろう。
少年は、「チクショー」と声を出して、二、三度母親に体当りをくらわせた。彼女は打撃をこらえながら、宙を見つめて、「ウン、ウン」とうなずいていた。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
岳少年にとって、野田知佑は、親戚の伯父さんのような存在である(いわゆる「ぼくの伯父さん」)。
犬の名前はガク。コロコロして手足が太い少年とよく似ているので、彼の名をつけた。この犬は、いずれ、日本初めてのカヌー犬として仕込み、川を下る時はいつも連れて行こうと思っている。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
カヌー犬ガクの初登場が、本作『のんびり行こうぜ』だった。
当時、生後一か月半だったガク(犬ガク)は、やがて、日本初のカヌー犬として、映画にも登場する(『ガクの冒険』1990年)。
椎名誠と三人の少年と犬のガクと一緒に十勝川を下るのは楽しかった。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
岳少年と犬ガクは、たちまち、兄弟のように仲良くなる。
カメラマンの佐藤秀明と椎名家に遊びに行くと、岳が二階からリール竿でオモチャをテグスに結びつけ、ガクを釣って遊んでいた。「ガク」と声をかけたら、「なーに」「ワンワン」と人間と犬が同時に返事をした。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
岳少年が、野田知佑佑という人間に魅了されたように、80年代の若者たちは、野田知佑というカヌーイストに憧れの存在を見出した。
節操のない現代日本にあって、筋を通して生きる野田知佑という生き方は、若者たちの道標的な存在でもあったのだろう。
後に、アウトドア雑誌『アウトドア』では、野田知佑による人生相談のコーナーまで生まれた。
アウトドアなんて遊びの一つに過ぎない。カヌーなんか漕げなくとも、魚釣りが嫌いでも、それはその人の人格とはあまり関係がない。(略)アウトドアをやればエラくなれるのだったら、ぼくなんかもっと上等な人間になってら。(野田知佑「のんびり行こうぜ」)
野田知佑は、とにかく偏った考え方を嫌う人だった。
そんな彼を、僕たちは親しみを込めて「野田さん」と呼ぶ。
書名:のんびり行こうぜ
著者:野田知佑
発行:1990/02/25
出版社:新潮文庫