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日本文学考察

【ノルウェイの森】直子はなぜ死んだのか?キズキとの死の連鎖と阿美寮というメタファー

【ノルウェイの森】直子とキズキはなぜ「あちら側」へ行ったのか? 死の連鎖と阿美寮のメタファー考察

『ノルウェイの森』は、ある意味でとても暗い恋愛小説である。

その根底にあるのは、物語全体を覆っている「死の気配」だ。

なぜ直子とキズキは、自殺しなければならなかったのか?

そして、二人が共有していた「あちら側の世界」とは何だったのか。

今回は、「阿美寮」の文学的役割を読み解きながら、『ノルウェイの森』の重要なテーマである「死は生の一部である」という視点から、直子やキズキの自殺の意味について考えてみいきたい。

なお、『ノルウェイの森』のあらすじや登場人物、テーマなどについては、親記事「【深読み考察】『ノルウェイの森』は何が言いたいのか?「気持ち悪い」不快感の正体とラストの意味」で、詳しく解説しています。

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【視点1】なぜキズキは自殺したのか?

① 親友・キズキの自殺の理由が明かされない意味

物語のすべての起点となり、ワタナベと直子の運命を決定づけているのは、親友・キズキの唐突な自殺だ。

17歳という若さの頂点で、なぜか突然に死んでしまったキズキ(その理由はどこにも明かされていない)。

彼は、ワタナベと直子という「生き残った者たち」の中に、「死という消えない記憶」を残していった。

つまり、キズキの自殺は、生きている者たちのために必要な死だった、ということになる。

②「死」を抱えたままで生きていく直子

直子にとってキズキは単なる恋人ではなかった。

彼は、直子の一部である。

キズキが「あちら側(死の世界)」へ行ったときから、直子の中に「死」が共存し始める。

これが「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」ということだ。

直子は「キズキの死」を自分の中に抱えたままで、生き続けていかなくてはならない。

そこに、死者の記憶(つまり「喪失感」)を抱えながら生きていくことの苦悩がある。

③ ワタナベと直子とのコントラスト

一方で、キズキの親友・ワタナベも、直子と同じように「キズキ」の死を抱えて、生き続けていかなくてはならない。

つまり、この作品は「キズキの自殺」という重荷を背負った二人の若者たちの、(実は)対照的な生き方を描いた物語だった、ということだ。

一般に、この物語は、直子と緑という対称的な女性たちの対比によって語られることが多い。

しかし、キズキの自殺を起点として、この物語を読むとき、本当に対称的だったのは、キズキの両隣にいる直子とワタナベという存在だったのだ。

直子は「死」の、そして、ワタナベは「生」の象徴として描かれ、やがて二人は運命的な訣別を求められることになる。

【視点2】阿美寮(あみりょう)というメタファーの意味

直子が入所した京都の山奥にある療養施設「阿美寮」。

そこは一見、精神の平穏を取り戻すための理想郷のようにも描かれている。

しかし、その実態は「生と死の境界線」だった。

①「阿美寮」とは何か?

「阿美寮」は、メンタルを病んだ直子が入所する療養施設である。

地図で見ると「阿美寮」はおそろしく山深いところにあった。(略)ここまで山奥ならそれは静かだろうと僕は思った。(村上春樹「ノルウェイの森」)

「おそろしく山深いところ」は、『羊をめぐる冒険』に登場した「北海道の山奥にある羊牧場」にもつながるモチーフだ。

なぜなら、村上春樹の小説において、こうした「限界地点」は、主人公自身の精神世界を意味することが多いからだ。

おそらく「阿美寮」は、主人公ワタナベの深層心理のメタファーとして読むべき存在である。

② トーマス・マン『魔の山』が意味するもの

一方で「阿美寮」へ直子を見舞ったとき、ワタナベは、トーマス・マンの『魔の山』という小説を持っていく。

ドイツ文学『魔の山』は、主人公の青年(カストルプ)が、山奥のサナトリウム(結核療養所)に入院しているいとこ(ツィームセン)を見舞いにいく物語だった。

山奥のサナトリウムが「生と死の境界線」を意味する存在だったことを考えると、京都にある阿美寮もまた「こちら側の世界」と「あちら側の世界」を繋ぐ境界線としての役割を与えられていたと考えることができる。

つまり「阿美寮」に与えられた(文学的な)役割は、「ワタナベの深層心理」と「生と死の境界線」という、二つの文学的メタファーである。

実際私たちが死ぬということは、死んでいく当人よりも、むしろあとに残る人々にとって問題なのである。(トーマス・マン「魔の山」高橋義孝・訳)

そして『魔の山』もまた「死者を抱えて生きる人々」の物語だった。

『魔の山』を読むことで、『ノルウェイの森』の世界観をより深く理解することができるはずだ。

※トーマス・マン『魔の山』のあらすじやテーマについては、別記事「【文芸考察】トーマス・マン『魔の山』生と死の境界線で生き続けていく人々」で詳しく紹介しています。

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③「阿美寮」の実在モデルとは?

「阿美寮」は、村上春樹が独自に作り上げた架空の療養空間である。

ただし「阿美寮」の構想には、村上春樹自身の体験が深く関わっていたと言われている。

「阿美寮」の着想源として村上春樹ファンの間では、作中の交通経路や山間部の描写から、「京都市左京区の花脊周辺」を想定したのではないかという説が有力。

作中でワタナベは、京都駅から市バスで三条へ向かい、私鉄バスのターミナルから十六番のバスに乗っている。

バスは京都市街を離れて山間部へ入り、曲がりくねった道や深い森林を抜けていくが、こうした描写が、三条方面から北山を経て花脊・広河原方面へ向かう道の景観を連想させているらしい。

花脊のさらに奥、大悲山には峰定寺(ぶじょうじ)と、摘草料理で知られる料理旅館・美山荘があるが、「阿美寮」との関連を特定することは困難である。

「阿美寮」は、トーマス・マン『魔の山』を念頭に置きながら、「花脊(大悲山・美山荘)の山深い景観」をベースに、実在のサナトリウムや修道院などのイメージを織り交ぜて創作されたものだったのかもしれない。

【視点3】なぜ直子は自殺しなければならなかったのか?

二十歳の誕生日を迎えた直子を抱いて、ワタナベは直子から離れられなくなっていく。

しかし、彼には直子を救うことはできなかった。

① ワタナベのセックスを超えて「死の世界」を選んだ直子

ワタナベは間違いなく真剣に直子を愛していた。

それだけは間違いがないと断言することができる。

彼は、直子を「こちらの世界」へ連れ戻すべく努力をする。

しかし、直子が求めていたのは「ワタナベと生きていく未来」ではなく、キズキとともに「死の世界で生きる」ことだった。

ワタナベとセックスをした夜に、直子が感じたもの。

それは「セックス」という「生の象徴」を通じてさえも、「キズキの死」を埋めることができなかったという、どうしようもない絶望である。

直子は、ワタナベとのセックスという「生の記憶」を抱いたままで、やがて死んでいかなければならなかった。

②「死者」を抱えて生きるほど人間は強くはない

直子を殺したものは「恋人キズキの死」という、大きな喪失感だった。

それは「生きること」によってさえ埋めることのできないほど、強大な喪失感だったと言える。

そこに描かれているのは、死者が与える影響の大きさである。

「死者」を抱えて生き続けることができるほど人間は強くはない、というひとつの「仮説」が、直子の人生にはある。

③ ワタナベ・キズキ・直子という三角関係

一方で、ワタナベは、キズキと直子の死を抱えて(少なくとも38歳までは)生き続けていく。

『魔の山』でトーマス・マンが「私たちが死ぬということは、死んでいく当人よりも、むしろあとに残る人々にとって問題なのである」と言ったように、ワタナベは生き続けていかなくてはならない。

なあキズキ、お前は昔俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。そして今、直子が俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。(村上春樹「ノルウェイの森」)

ここに「キズキ・直子・ワタナベ」という、死者に呪われた若者たちの三角関係がある。

本作『ノルウェイの森』は、三角関係の物語だった。

それは、主人公ワタナベを中心としてキズキ・直子・緑が複雑に絡み合う、重層構造の三角関係だったのである。

まとめ│「死」を引き受けて「生きる」ということ

本作『ノルウェイの森』において、「直子の死」は避けることのできない「必然」だった。

なぜなら、この作品は「死者の魂を抱えたままで生きていく人間の物語」だったからだ。

物語の主役は、あくまでも(生き残って)生き続けていく男性・ワタナベである。

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在する」という言葉の真意──。

読み方を変えると『ノルウェイの森』は、「なぜワタナベは生き続けることができたのか?」という究極の謎を追求した物語として読むことができるのではないだろうか。

「死んでいく当人よりも、むしろあとに残る人々にとって問題なのである」と、トーマス・マンが予言したように。

そのときに重要なポイントになってくるのが、直子のライバルとして登場する元気な女子大生「小林緑」である。

次回「【ノルウェイの森】直子(過去)と緑(未来)の間で引き裂かれるワタナベの葛藤」では、「直子と緑との対比」という視点から、ワタナベが生き続けた理由について探っていきたい。

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なお、本作『ノルウェイの森』のあらすじや基本テーマについては、親記事「【深読み考察】『ノルウェイの森』は何が言いたいのか?「気持ち悪い」不快感の正体とラストの意味」で詳しく考察しています。

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