『ノルウェイの森』の結末には、二つの大きな謎がある。

なぜワタナベは、直子の死後にレイコさんと寝たのか。

そして、なぜ緑に電話をかけた最後の場面で、「僕は今どこにいるのだ?」と自分の居場所を見失うのか。

この記事では、レイコさんに与えられた役割を読み解きながら、ラストシーンの意味について考察していきたい。

3行でわかる『ノルウェイの森』のラストシーン

レイコさんとの一夜
直子の死後、阿美寮を出たレイコさんはワタナベを訪ね、二人は直子を弔ったあとに一夜をともにする。

緑への電話
レイコさんを見送ったワタナベは緑に電話をかけ、自分が彼女を求めていることを伝える。

最後の問い
しかし「今どこにいるの?」と尋ねられたワタナベは、自分の居場所を見失い、「どこでもない場所」から緑を呼び続ける。

レイコさんとはどんな人物なのか?

レイコさんは、京都の山中にある療養施設「阿美寮」で直子と同室で暮らしている年上の女性である。

かつてはピアノを教えていた経験があり、阿美寮ではギターを弾きながら生活している。

直子とは親しく、ワタナベが阿美寮を訪れた際には、直子を交えて三人で話をしたり、音楽を演奏したりして過ごす。

レイコさん自身も長く精神的な問題を抱え、阿美寮で療養生活を続けてきた。

直子の死後、阿美寮を離れた彼女は、東京にいるワタナベを訪れ、二人でセックスをする。

なぜ、レイコさんは、ワタナベと性行為をする必要があったのだろうか?

【視点1】なぜワタナベはレイコさんと寝たのか?

レイコさんとのセックスは恋愛ではない

直子と最も近い存在であり、彼女の最期を看取ったレイコさんは、いわば「死者の代理人」だ。

死んだ直子の服を着たレイコさんは「直子の化身」だったと言える。

なにより、レイコさんは、異界と現世とを行き来する「巫女」の役割を担っていた。

つまり、レイコさんとのセックスは、単なる性行為を越える宗教的な意味を有しているのだ。

ワタナベ君にとっては、あるいはこの小説にとっては、この段階でカタルシスが必要だったんです。(略)彼は玲子さんとやんなくちゃいけなかったんですよ。とことん。これ以上できないというくらいに。(『par AVION』1988/VOL.1「村上春樹ロングインタビュー│『ノルウェイの森』について」)

それは、死んだ直子の「生への未練」や「肉体の記憶」を、生き残ったワタナベが引き受け、浄化するための「弔いの儀式(葬儀)」だったのかもしれない。

レイコさんにとっても「再生の夜」だった

唐突とも思える二人の性行為は、療養所(阿美寮)から抜け出したレイコさんが、現実に生きていることを確認するための神聖な行為でもある。

「ねえ、ワタナベ君、私とあれやろうよ」と弾き終ったあとでレイコさんが小さな声で言った。「不思議ですね」と僕は言った。「僕も同じことを考えてたんです」(村上春樹「ノルウェイの森」)

『ノルウェイの森』における性行為は、欲望の処理という以上に(あるいは、愛情の証という以上に)、「生きていることの証明」を意味する重要なメタファーとして読むべきなのなのだ。

【視点2】ラストの「僕は今どこにいるのだ?」は何を意味するのか

レイコさんとの儀式を終えワタナベは、ようやく「現実世界」の象徴である緑に電話をかけることができる。

しかし、物語は、唐突な虚無感とともに幕を閉じた。

「どこでもない場所」とは何か?

緑の声が聞こえているのに、自分がどこにいるのか分からない。この圧倒的な「喪失感」こそが、『ノルウェイの森』という物語が導き出した真実である。

「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。僕は今どこにいるのだ? 僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ?(村上春樹「ノルウェイの森」)

ワタナベは直子という「過去」を弔い、緑という「未来」を選んだ。

しかし、死者を背負って生きる決意をした彼は、もはや以前と同じ「無垢な生の世界」へと戻ることはできない。

『エリナー・リグビー』『ノーホエア・マン』が示すラスト

そこには、『ノルウェイの森』と同じビートルズの曲が投影されている。

最後のシーンはビートルズの好きな人ならわかると思うけど、『エリナー・リグビー』と『ノーホエア・マン』ですね。その二つの曲の歌詞を読んでもらえれば、僕がその文章を最後に持ってきた意味はわかってもらえると思う。(『par AVION』1988/VOL.1「村上春樹ロングインタビュー│『ノルウェイの森』について」)

死者の世界「あちら側」でもなく、ただ生命力に溢れるだけの「こちら側」でもない、その中間にある「どこでもない場所」で、ワタナベは生きていかなくてはならない。

それが、この小説の主題である「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」ということなのだ。

「37歳になったワタナベ」への回帰

そして、物語は、冒頭の「37歳になったワタナベ」へと戻っていく。

ワタナベが「こちら側の世界」で生き続けてきたことを証明するのが、冒頭に登場する「37歳の主人公」の姿だった。

飛行機が完全にストップして、人々がシートベルトを外し、物入れの中からバッグやら上着やらをとりだし始めるまで、僕はずっとあの草原の中にいた。僕は草の匂いをかぎ、肌に風を感じ、鳥の声を聴いた。それは一九六九年の秋で、僕はもうすぐ二十歳になろうとしていた。(村上春樹「ノルウェイの森」)

「1969年の草原」は、主人公(ワタナベ)の心の中にある(おそらくは、潜在意識下に潜んで、死んだキズキや直子たちと一緒に)。

生と死の間に取り残される感覚

ハッピーエンドでもなく、完全な悲劇でもない。

愛する人を弔い、新しい愛を求めたはずなのに、なぜかしら「深い喪失感」だけが残る。

この「生と死の間に取り残される感覚」こそが、今、実際に生きている我々の不安を呼び覚ますのだ。

彼は、今、「こちら側」でも「あちら側」でもない世界の境界線上にいる。

僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。(村上春樹「ノルウェイの森」)

逆に言うと、その不安は、我々が今実際に「生きている」ことの証明でもある。

人は皆、自分がどこにいるかも分からないままで、誰かの名前を呼びながら生き続けていくのかもしれない。

まとめ│「どこでもない場所」から始まる物語

『ノルウェイの森』は、喪失から立ち直る物語ではない。

喪失を「自分の一部」として受け入れ、混迷した現実の中へと戻っていく物語だ。

電話ボックスの中にあるワタナベの孤独は、今を生きる我々の孤独でもある。

その痛みを共有できたとき、この「気持ち悪い」ほどにリアルな物語は、かけがえのない一冊へと変わるのではないだろうか。

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『ノルウェイの森』のあらすじや登場人物、テーマなどについては、次の記事で詳しく解説しています。

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