文学鑑賞

【深読み考察】村上春樹「1973年のピンボール」中途半端な青春に決着をつけた男の再生物語

村上春樹「1973年のピンボール」あらすじ・感想・考察・解説

村上春樹「1973年のピンボール」読了。

本作「1973年のピンボール」は、1980年(昭和55年)3月『群像』に発表された長篇小説である。

この年、著者は31歳だった。

単行本は、1980年(昭和55年)6月に講談社から刊行されている。

第83回芥川賞候補作(村上春樹にとっては、2回目かつ最後の芥川賞候補作となった)。

人生の「砂場」からの脱出

この物語から僕が学んだことは、人は誰も古い思い出を心の「貯水池」に沈めて、人生の「砂場」から抜け出さなければならない、ということだ。

本作『1973年のピンボール』は、恋人を亡くした喪失感から抜け出そうとする男の、再生物語である。

帰りの電車の中で何度も自分に言い聞かせた。全ては終っちまったんだ、もう忘れろ、と。そのためにここまで来たんじゃないか、と。でも忘れることなんてできなかった。直子を愛していたことも。そして彼女がもう死んでしまったことも。結局のところ何ひとつ終ってはいなかったからだ。(村上春樹「1973年のピンボール」)

物事には、始まりと終わりが必要だ。

中途半端だった青春時代の決着を求めて、主人公は自分探しの旅に出かける(それが、この小説だ)。

いわゆる「鼠三部作(青春三部作)」の中でも、前作『風の歌を聴け』や次作『羊をめぐる冒険』に比べ、本作『1973年のピンボール』は、「意味がわからない」とか「つまらない」などと評されることが多い。

最初にカードを整理しておこう。

配電盤、砂場、貯水池、ゴルフ・コース、セーターの綻び、そしてピンボール……。どこまで行けばいいのだろうと思う。脈絡のないバラバラのカードを抱えたまま僕は途方に暮れていた。(村上春樹「1973年のピンボール」)

「脈絡のないバラバラのカード」とあるのは、もちろん、これらのカードこそが、本作を読み解く上で重要なつながりを持っているというメッセージだ。

「貯水池」の底に沈められた「配電盤」は、主人公の古い心で、忘れることのできなかった心の重荷でもある(そして、おそらく、それは「二十歳」と大きな関わりを持っている)。

もちろん、古い配電盤を新しい配電盤に取り替えるように、人の心を簡単に交換することはできない。

僕たちにできることは、心の重荷を心の奥底深いところ(例えば貯水池)へ仕舞い込んでしまうことだけだ。

「セーターの綻び」は、傷ついた主人公自身の投影であって、綻びを繕ってくれる事務所の女の子との会話によって、主人公は救済の糸口をつかみ始める。

彼女は黙りこくって海老を食べつづけた。僕も海老を食べた。そして海老を食べながら貯水池の底の配電盤を思った。「あなたは二十歳のころ何をしてたの?」「女の子に夢中だったよ」一九六九年、我らが年。(村上春樹「1973年のピンボール」)

彼女は20歳で、直子と主人公が出会った1969年の春には、二人も20歳だった(20歳ライン)。

この物語では「二十歳」が、一つのキーワードとなっている。

ピンボール・マシーンのことを思い出す場所となった「ゴルフ・コース」は、人生の縮図と読みたい。

小学校の長い廊下みたいなフェアウェイを通りぬけて、近所に住む学生が練習しているフルートを聴いたとき、主人公は、青春の日のピンボール・マシーンを思い出す。

おそらく、ゴルフ・コースの散策は、過去を回想する主人公の投影となっていたはずだ。

ロスト・ボールは、忘れかけていた記憶の断片だから、ロスト・ボールを拾い歩く行為は、思い出探しの行為でもある。

極論すれば、1973年5月に訪れた「直子の故郷にある駅」さえも、主人公にとっては、ゴルフ・コースと同じものだったと言えるだろう(つまり、心の回想を投影したもの)。

むしろ、その「駅」こそが、ゴルフ・コースの中の「砂場(バンカー)」だったのかもしれない(主人公の心が留まっている場所ということで)。

夕暮れのゴルフ・コースで、なぜ主人公はピンボール・マシンを思い出したのか?

それは、ピンボール・マシーンこそが、主人公にとって青春時代の象徴だったからだ。

最初に「これはピンボールについての小説である」という文章があった。

つまり、この小説は、主人公にとって「青春についての小説でもある」ということだ。

神聖なる「砂場(バンカー)」は、思うように進むことのできない、人生の停滞期のことだろう。

1970年の春に恋人を亡くした主人公は、その半年ばかりを暗い穴の中で過ごした後、1970年の冬、心の痛手を負ったまま、ピンボールに夢中になる。

それは、死んだ恋人を忘れるための祈りのような行為だったのかもしれない。

あなたのせいじゃない、と彼女は言った。そして何度も首を振った。あなたは悪くなんかないのよ、精一杯やったじゃない。違う、と僕は言う。(略)違うんだ。僕は何ひとつ出来なかった。指一本動かせなかった。でも、やろうと思えばできたんだ。(村上春樹「1973年のピンボール」)

「何ひとつ終っちゃいない、いつまでもきっと同じなんだ」とつぶやく主人公の心にひっかかっているのは「でも、やろうと思えばできたんだ」ということだろう。

ところが、突然にゲームセンターが閉鎖されたことによって、主人公の「祈り」は宙ぶらりんの状態で投げ出されてしまった。

「終わり」に辿り着く前のゲームセット。

まるで砂場の中に取り残されたような中途半端な状態を解決することこそが、主人公にとっての「出口」だったのではないだろうか。

分かりやすい言葉に言い換えると、それは「青春の決着」ということになる。

やがて、懐かしいピンボール・マシーン「3フリッパーのスペースシップ」と再会した主人公は、今度こそ本当に自分自身の青春(の象徴)と別れの挨拶を交わす。

なんだか不思議ね、何もかもが本当に起こったことじゃないみたい。いや、本当に起こったことさ。ただ消えてしまったんだ。辛い? いや、と僕は首を振った。無から生じたものがもとの場所に戻った、それだけのことさ。(村上春樹「1973年のピンボール」)

ピンボール・マシーンは、死んだ恋人と会話するための霊媒のような存在でもあったから、ピンボール・マシーンとの決別は、イコール死んだ恋人との永遠の決別をも意味する。

それは、主人公にとってひとつの「終わり」を示すものであり、同時に、新たな「始まり」を示すものでもあっただろう。

ということで、僕は『1973年のピンボール』という小説を、傷ついた男の再生の物語として、前向きな気持ちで読みたいと思う。

メタファーの謎解きだから、メチャクチャな深読みではあるけれど、バラバラのカードを繋ぎ合わせていくと、意外とスムーズに読めてしまうから不思議だ。

それにしても「配電盤、砂場、貯水池、ゴルフコース、セーターの綻び、そしてピンボール。脈絡のないバラバラのカードを抱えたまま、僕は途方に暮れていた」という強烈なサジェスチョンがなかったら、ここまで読み解くことは難しかっただろう(もしかすると、意図的に埋め込まれたものかもしれない)。

「直子の死」からの解放

作中で主人公は、いつも自分の居場所を探し続けている。

何処まで行けば僕は僕自身の場所をみつけることができるのか? 例えば何処だ? 複座の雷撃機というのが僕が長い時間かけて思いついた唯一の場所だった。(村上春樹「1973年のピンボール」)

特徴的なのは、主人公は「古い時代」に縛られている、ということだろう。

問題は、と僕は思う。僕に合った場所が全て時代遅れになりつつあることだった。仕方のないことだと思う。なにもアウシュビッツや複座雷撃機に遡るまでもない。(村上春樹「1973年のピンボール」)

だからこそ、「古い時代」からの脱出は、主人公にとって心の解放であり、新しい自分の発見でもあった。

同じように「どんなにあがいたところで何処にも行けやしないんだ」と苦しむ鼠の物語も、また、主人公のひとつの投影だ。

「問題は、」とジェイが言った。「あんた自身が変ろうとしていることだ。そうだね?」「実にね」おそろしく静かな何秒かが流れた。(村上春樹「1973年のピンボール」)

主人公の「古い時間」と鼠の「古い場所」はリンクしていて、どちらも根源にあるのは直子の死だ。

直子の死からの解放こそが、この物語のテーマだったということだろう。

もっとも、後の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と違って、本作におけるパラレルな展開(主人公の物語と鼠の物語の繰り返し)は何だか中途半端で、主人公の再生(再出発)を十分には描ききれていないような気がする(「わかりにくい」と言われる原因が、ここにもある)。

むしろ、本作は、その後の村上春樹へとつながっていくための試行的な作品と考えた方が受け入れやすいと思う。

デビュー作『風の歌を聴け』は、コラージュ的な作品でありつつも、一つの小説として完成されていたから、『風の歌を聴け』のような作品を期待した人は、あるいは、肩透かしを食ったかもしれない(最初は自分もそうだったので)。

ただ、細部では良いフレーズがたくさんあることも事実。

「ねえ、誰かが言ったよ。ゆっくり歩け、そしてたっぷり水を飲めってね」とか「どんな髭剃りにも哲学はあるってね」とか「過ぎてしまえばみんな夢みたいだ」とか。

「どんな髭剃りにも哲学はある」という言葉は、英和辞典の例文に載っていたサマセット・モームの文章らしいが、出典は不明。

村上春樹は、この言葉が好きで、いくつかのエッセイでも引用している(『ランゲルハンス島の午後』『走ることについて語るときに僕の語ること』)。

フィッツジェラルド『崩壊』からの引用も、『風の歌を聴け』の余韻という感じがする。

鼠は唇を噛み、テーブルを眺めながら考え込んだ。「そしてこう思った。どんな進歩もどんな変化も結局は崩壊の過程に過ぎないんじゃないかってね。違うかい?」(村上春樹「1973年のピンボール」)

意外と名言が多いのが、この『1973年のピンボール』という小説だったのかもしれない。

「耳あか」は青春の日の象徴

双子の女の子が、ピンボール・マシーンとの決別と、ほぼ同時期に去ってしまうことも、もしかすると、青春の終わりを示唆したものだろうか。

もしも、双子の女の子がピンボール・マシーンの一部であるフリッパーの投影であって、二人が去ったことによって(つまりピンボール・マシーンと決別したことによって)、主人公の青春の終わりが表現されているのだとしたら、この物語が「ピンボールの小説である」(つまり「青春の小説である」)ことの説明となるかもしれない。

もっとも、本作における双子の女の子は、本来ファンタジー的な要素であるはずなので、「なぜ、双子の女の子なのか?」という議論に、本質的な意味は感じられない。

小説の構造そのものをピンボール・マシーンに喩えてみたところで、文学作品としてのメッセージは見出せないからだ(「人生はピンボールだ」みたいな意味はないと思う)。

むしろ、双子の女の子は、物語を円滑に進めるための案内役(舞台回し)として考えた方が分かりやすい。

その点、たった一度の夕食で、物語の流れを大きく変えてしまった事務所の女の子の存在は大きい。

大切なことは、そこに「20歳の女の子がいた」ということだろう(過去と現在をつなぐ役割)。

主人公自身が生み出した双子の女の子に、物語の流れを変える役割は期待できないし、セーターの綻びを繕う(心の傷を癒やす)ことも期待できない。

彼女たちにできることは、配電盤のありかを教えることと、貯水池での葬式を提案することくらいだ。

これは、双子の女の子が、主人公の心を投影した存在だからこそ可能だったに違いない。

だから、主人公と一緒にゴルフ・コースを散策できる(過去を回想できる)のは、双子の女の子だけだった。

主人公を置いて、双子の女の子だけでゴルフ・コースの散策へ出かけたとき、主人公はひどく動揺する。

それは、自分の心の一部が、過去の世界へ置き去りになってしまう危険性を孕んでいるからだ。

あるいは、双子の女の子は、主人公の心の中にある過去の世界から生まれた存在だったのだろうか。

すべてが終わったとき、彼女たちは(主人公の心の中にある)過去の世界へと戻っていったのだ。

素晴らしいのは、エピローグとして出てくる「耳あか」の話である。

「あんたの耳の穴は他の人よりずっと大きくて曲ってんのよ」(略)「だからもしあんたの耳あかがこの角を曲がっちゃうと、もう誰が呼んでも帰って来ないのよ」(村上春樹「1973年のピンボール」)

作者の伝えたかったことは、この「耳あか」のエピソード(寓話)に集約されている。

角を曲がってしまえば、誰が呼んでも帰ってこない耳あかは、つまり、青春の日の思い出ということだろう。

だけど、耳あかの小説なんか書いたって、誰も喜んでくれないから、このエピソードはささやかなエピローグとして収められたのだ(本当は、ここが一番村上春樹らしいところなんだけれど)。

思うに、青春なんて、ピンボール・ゲームのように、浪費と消耗と自己満足の繰り返しである。

おまけに、時代遅れで古臭いピンボール・マシーンは、そのまま、過ぎ去ってしまった主人公の青春と重ね合わせることができる。

そこへ、さらに、死んだ恋人の物語が組み合わされているというのが、この物語の大きな構造だ(ピンボール・マシーン=傷だらけの青春時代=死んだ恋人の直子)。

鼠の物語は、ピンボールの物語に深みを与える役割を担っているけれど、十分には機能しなかったらしい。

中途半端な印象は拭いきれないにしても、青春の日の小説なんて、むしろ、このくらいでちょうどいいような気もする。

当たり前ではあるけれども、老作家となってからの村上春樹よりはずっと瑞々しいし、過去を振り返る小説でありながら、未来に向かって書かれていることが伝わってくる。

結局のところ、この作品の魅力というのは、そうした未来への可能性にあったのではないだろうか。

書名:1973年のピンボール
著者:村上春樹
発行:1983/09/15
出版社:講談社文庫

ABOUT ME
みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。