3KINGS「りんご畑は永遠なのさ」は札幌の歌だ。
友部正人のストロベリー・フィールズは、懐かしい札幌の中にある。
藻岩山のふもとに林檎畑が広がっていた、あの頃の札幌の中に。
友部正人の少年時代
友部正人の「耳をすます旅人」というエッセイに、札幌時代のことが綴られている(ちくま文庫『歌を探して』所収)。
ぼくは小学校一、二年生のころ札幌に住んでいた。雪の日には、学校へ行くのが非常につらかった。吹雪だと前に進めなくなり、それでもマスクと帽子で顔を全部覆って涙を流しながら学校へ通った。(友部正人「耳をすます旅人」)
友部正人(本名・小野正人)は1950年(昭和25年)生まれだから、小学校入学は1957年(昭和32年)。
つまり、1957年(昭和32年)から1958年(昭和33年)にかけてが、友部正人の札幌時代だった、ということになるのだろう。
1957年(昭和32年)というのは、さっぽろテレビ塔が開業した年であり、1958年(昭和33年)は、札幌もいわ山ロープウェイが開業した年である。
1955年(昭和30年)には、琴似町・札幌村・篠路村が、札幌市と合併していたが、当時の人口は50万人にも届かず、豊平町や手稲町は、札幌市へ編入される前だった(豊平町は昭和36年、手稲町は昭和42年に合併)。
戦後10年を経て、現代都市・札幌の基礎が、ようやく固まりつつある時代だった、ということかもしれない。
そして、そして、そんな時代の少年期を歌った作品が、本作「りんご畑は永遠なのさ」である(3KINGS『王様のノイズ』所収)。
ジョン・レノンのストロベリー・フィールズは二つある
一つはイギリスのリバプール
もう一つはニューヨークのセントラルパーク
どちらもジョン・レノンの家のすぐ近く
木立が孤独を抱きしめる場所
(3KINGS「りんご畑は永遠なのさ」)
「りんご畑は永遠なのさ」は、ビートルズ「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」(1967)から始まる。
実際に、歌のモチーフとなっているのは、リヴァプール郊外にある戦争孤児院「ストロベリー・フィールド」らしい(2005年に閉鎖)。
ジョン・レノンの家の近くにあった「ストロベリー・フィールド」は、少年時代を象徴する思い出の場所として機能している(つまり、心の故郷だ)。
一方、友部正人にも、心の故郷(ストロベリー・フィールズ)があった。
ぼくにもストロベリー・フィールズが一つある
子供の頃に暮らした札幌の
藻岩山のすぐ麓にあったりんご畑
自然界への入り口だった
ぼくが九歳になるまでのこと
(3KINGS「りんご畑は永遠なのさ」)
「藻岩山のすぐ麓にあったりんご畑」が、友部正人にとっての「ストロベリー・フィールズ」である。
藻岩山のすぐ麓にあったりんご畑
高度経済成長期まで、札幌市内には果樹園が多く、特に、当時はまだ豊平町だった「平岸(ひらぎし)」は、林檎の名産地として有名だった。
「平岸リンゴ」のブランドは、海外へ輸出されるほど人気だったらしい。
1958年(昭和33年)に造成された「木の花団地(このはなだんち)」は、平岸の果樹園を住宅地へ転用したものだが、もともと、一帯は林檎の木の花が美しく、「木の花通り」という名前の道が、そのまま団地名にも採用された(だから「木の花」とは林檎の白い花のことを意味している)。
平岸に隣接する「旭町(あさひまち)」の名前は、林檎の品種「旭」に由来している。
それでは、友部正人の歌にある「藻岩山のすぐ麓」の様子は、どうだったのだろうか。
『郷土誌もいわ』(1971)には「りんごのはじめ」という項目がある。
明治二十二、三年ころに、佐藤治右衛門さんが、山鼻屯田から苗木をもらって植えたのが、はじまりらしいです。しかし、りんご園として経営しはじめたのは、一八九八(明治三十一)年南沢にはいった小野高治さんがはやいとのことです。それから、たくさんの人が、りんごをつくりました。いまでは、家のまわりに、いくらかのこっているぐらいです。(札幌市立藻岩小学校「郷土誌もいわ」)
これを読むと、屯田兵が開拓した山鼻地区(中央区)や南沢(南区)にも、多くの林檎園の経営されていたことが分かる。
高度経済成長期まで藻岩山西部は、果樹園の街だったのだ。
船山馨の小説『北国物語』(1941)は、昭和初期の軍艦岬周辺が舞台となっている。
畑のうえのたかく澄んで雲ひとつない青々した空からは、さやさやと菩提樹の葉をそよがせて秋の微風がわたってき、その風に送られてどこか近所らしい果樹園の匂いが豊かな甘さで鼻先をくすぐった。(船山馨「北国物語」)
主人公が暮らす「高梨農園」はじめ、かつての藻岩には多くの果樹園があった様子が分かる。
ちなみに、藻岩小学校の「藻岩(もいわ)」は、一帯の地名に由来しているものだ。
わたしたちのまち藻岩は、人口百万をこえ、大きく発展をつづける、北海道の首都札幌市の南のほうにあり、むかしは、八垂別(はったりべつ)といったまちですが、今は川沿町、北の沢、中の沢、南沢の四つのまちにわかれているとても広いまちです。(札幌市立藻岩小学校「郷土誌もいわ」)
「北の沢」を走る「藻岩山自動車観光道路」も、藻岩山ロープウェイと同じく、1958年(昭和33年)に開業したものだ。
「南沢」には多くの林檎園があった。
『郷土誌もいわ』には、南沢のりんご園が、写真入りで紹介されている。
南の山の手には、しゃめんをいかしたりんご園がのこっています。むかしは、たくさんつくられていたりんごも、今ではわずかになってしまいました。(札幌市立藻岩小学校「郷土誌もいわ」)
友部正人が暮らした昭和30年代初期、南沢一帯には多くの林檎畑が広がっていたことだろう。
りんごみたいに着飾った
煙突のある女たち
日暮れを集める女たち
りんご畑へと続くあの道は
今は住宅街の中のただの小道
(3KINGS「りんご畑は永遠なのさ」)
昭和30年代、やがて来る札幌オリンピック(1972)の時代に向けて、札幌の街は大きく変わりつつあった。
農業都市は観光都市へ、りんご畑は住宅街へと。
だけど りんご畑は永遠なのさ
道に迷ったまま日が暮れて
心細いまま大人になった
ぼくを残してきたあの場所は
今もきっとあるはずさ
(3KINGS「りんご畑は永遠なのさ」)
そこには、少年のまま遊び続けている「ぼく」が、今もいるはずだ。
心細いまま大人になった、あの頃のままの「ぼく」が。
今は固く閉ざされて
子供たちの声も聞こえないけど
思い出を抱いた人たちの
ストロベリー・フィールズの門は
いつも開いている
(3KINGS「りんご畑は永遠なのさ」)
孤独を抱きしめたとき、人は誰でも、自分の中の「ストロベリー・フィールズ」を思い出すはずだ。
少年の日の(あるいは少女の日の)イノセントな自分が生きている、自分だけの心の故郷を。
友部少年の遊んだ「りんご畑」は、もしかすると、古き良き札幌の、最後の情景だったのかもしれない。