中島敦「山月記」読了。
本作「山月記」は、1942年(昭和17年)2月『文学界』に発表された短編小説である(デビュー作だった)。
この年、著者は33歳だった(この年の12月に病死)。
作品集としては、1942年(昭和17年)7月に筑摩書房から刊行された第一創作集『光と風と夢』に収録されている。
なお、『文学界』において、「山月記」は「文字禍」と併せて『古譚』という題名で掲載された。
才能に溺れて詩人になることができなかった男の没落
本作「山月記」が伝えたかったことを、本文中からひとつ抜き出すとしたら、自分は「己よりも遙かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となつた者が幾らでもいるのだ」という一文を選ぶだろう。
本作「山月記」は、才能に溺れて詩人になることができなかった男の没落を描いた物語である。
普通、こういう物語は、詩人が虎になった理由までを書かないものだが、本作では、虎になった詩人自身が、自分の虎になった理由を分析するところが、大きな山場となっている。
つまり、著者が本当に伝えたかったことを、著者は物語の中にすっかりと書き込んでしまっているのだ。
己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。之が己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形を斯くの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費して了った譯だ。(中島敦「山月記」)
主人公<李徴>は詩人を目指す役人だったが、あまりに芸術に重きを置きすぎた末、発狂して姿を消してしまう。
長く行方知れずになっていた李徴は、恐ろしい虎の姿となって、かつての仲間<袁傪>の前に姿を現わす。
殘月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。虎は、あはや袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を翻して、元の叢に隱れた。叢の中から人間の声で「あぶない所だった」と繰返し呟くのが聞えた。(中島敦「山月記」)
旧友の前で、虎は詩を読み、妻子の無事を頼む。
そこには、発狂してまで詩を捨てきれない男の哀しさがあった。
本作「山月記」は、芸術家を目指す男たちのなれの果てを描いた、絶望の物語である。
この物語は「夢を見ることを恐れるな」と伝えている
虎になった理由について、李徴は「己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった」ためだと、自己分析している。
いっそ中途半端な才能であれば、仲間たちと互いに技術を磨き合い、師に教えを乞うこともできる。
しかし、自分の才能に絶対の自信を持っていた(というか、むしろ、才能のないことを恐れていた)李徴は、仲間たちと交わることもなく、ひたすら孤独に自分だけの道を歩み続けた。
仮に才能が開花していれば、李徴もまだ救われたかもしれない。
羞しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己は、己の詩集が長安風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。嗤って呉れ。詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。(中島敦「山月記」)
詩人になり損ねた男は、発狂して虎となり、虎となった今も、詩人となる夢を見ている。
男にとって、詩人の夢は、どれだけ大きなものだったことか──。
人はみな、夢を見るものである。
そして、大抵の場合、多くの夢は挫折と絶望の中に沈んでいく。
挫折と絶望の中で、もしも、夢を断ち切れないことがあれば、その人は発狂して虎になってしまうかもしれない。
しかし、だからと言って、この物語は、夢を見ることの虚しさを説いているわけではない。
むしろ、この物語は「夢を見ることを恐れるな」と伝えているように、自分には思える。
本当に、その夢を実現させたいと思うのなら、「才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧」も「刻苦を厭う怠惰」も全部捨て去って、泥まみれで夢に向かっていけと、この物語は訴えているのだ。
何も、之に仍って一人前の詩人面づらをしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせて迄自分が生涯それに執着した所のものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。(中島敦「山月記」)
死んでも死にきれないほどの悔いを残すほど、悲しい人生はない。
大切なことは、ほんの僅かの才能であっても、それを必死で磨き続けることなのだ。
読めば読むほど、この物語は、ひたすらに前向きであり、芸術と心中しようという覚悟を決めた著者の悲壮な決意が伝わってくるような気がする。
そして、虎になった男のメッセージは、令和の時代の今も、脈々と生き続けているのだ。
作品名:山月記
著者:中島敦
書名:李陵・山月記
発行:2003/12/15 改版
出版社:新潮文庫