井伏鱒二「山椒魚」読了。
本作「山椒魚」は、1929年(昭和4年)5月『文芸都市』に発表された短編小説である。
この年、著者は31歳だった。
なお、作品集としては、1929年(昭和4年)4月に新潮社から刊行された『夜ふけと梅の花』に収録されている。
「山椒魚」の原型として、1923年(大正12年)7月『世紀』に発表された「幽閉」がある。
世の中へ出ることのできない若者の焦りを描く
狭い岩屋に閉じこめられた<山椒魚>は、なかなかメジャーデビューできないで苦しんでいるミュージシャンの姿を思わせる(乃木坂46で言えば「アンダー」で、THE MODSで言えば「TWO PUNKS」)。
あるいは、それは、なかなか一軍デビューできないでいる、万年二軍のプロ野球選手の姿だったかもしれない。
そして、大きな夢を抱きながら、社会の底辺で燻り続けている多くの若者たちの姿を──。
彼は「いよいよ出られないというならば、おれにも相当な考えがあるんだ」と虚勢を張って見せるが、その実、彼には、何一つとしてうまい考えはない。
思いに窮した人々が部屋の中を歩き回るように、山椒魚も岩屋の中で泳ぎ回ろうとするが、狭い岩屋の中では泳ぎ回ることさえできない。
そのくせ、彼は、同じ方向に向かって泳ぎ続けるメダカの群れを見て嘲笑してみせる。
山椒魚は、これらの小魚たちをながめながら彼らを嘲笑してしまった。「なんという不自由千万なやつらであろう!」(井伏鱒二「山椒魚」)
例えてみれば、それは、レコード会社の言いなりになるミュージシャンであり、監督やコーチの指図どおりにプレイしなければならないプロ野球選手のようなものであっただろう(あるいは、上司の命令に従うしかないサラリーマンたち)。
しかし、彼には、そもそも演奏するステージもなければ、プレイをするグラウンドさえ用意されていなかった。
彼にできることは、ただ、狭い岩屋の中から、じっと「広くて明るい世界」を眺め続けていることだけだったのだ。
卵を抱えた一匹の小えびが迷い込んできて、何か一生懸命に物思いにふけっている様子を見たときも、彼は笑った。
山椒魚は得意げに言った。「くったくしたり物思いにふけったりするやつはばかだよ」(井伏鱒二「山椒魚」)
しかし、山椒魚が岩屋の外へ出る術は、既にない。
絶望のどん底で生きていながら、なおかつ、彼は、あきらめることを受け入れられないでいたのである。
この作品を執筆した頃、著者の井伏さんもまた、岩屋の中に幽閉された一匹の山椒魚だった。
山椒魚はこれらの活発な動作と光景とを感動の瞳でながめていたが、やがて彼は自分を感動させるものからむしろ目をそむけたほうがいいということに気がついた。彼は目を閉じてみた。悲しかった。(井伏鱒二「山椒魚」)
文壇で華やかに活躍する仲間たちを眺めながら、「どうしても岩屋の外に出なくてはならない」と焦っていたのかもしれない。
蛙の言葉はなぜ削除されたのか?
「山椒魚」は鑑賞の難しい作品である。
それを特に感じるのは、後に削除されることになるラストシーンだろう。
自分と同じような境遇の蛙と争いながら、山椒魚の時間は岩屋の中で無為に過ぎていく。
やがて、蛙は「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」と、許しの言葉を山椒魚に与えるが、この和解の場面は、『井伏鱒二自選全集』(1985)の時点で削除されてしまう。
後年になって考えたが、外に出られない山椒魚はどうしても出られない運命に置かれてしまったと覚悟した。「絶対」ということを教えられたのだ。観念したのである。(井伏鱒二『井伏鱒二自選全集』覚え書)
この改変によって、作品はよりシンプルなものとなったが、当初の作品の核心とも言える部分が削られてしまったことで、「山椒魚」は、小説としての鑑賞が難しい作品となってしまった(なにしろ、発表から60年が経過していた)。
二つの作品を読み比べてみたとき、「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」という蛙の言葉で終わる当初の作品の方が、ささやかながらも明るくて前向きで、わずかに希望の可能性を残していることに気づく。
「岩屋の中」という自分たちの世界で友情を通わすこともまた、人生の真実の一つだったのかもしれない(華やかな舞台で活躍することはなかったとしても)。
なお、2000年(平成12年)に刊行された岩波少年文庫版では、筑摩書房版『井伏鱒二全集』(2000)を底本としている(全集は初収録の刊本を使用)。
少なくとも、読者は、「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」という蛙の言葉を、必要としているのではないだろうか。
作品名:山椒魚
著者:井伏鱒二
書名:山椒魚 しびれ池のカモ
発行:2000/11/17
出版社:岩波少年文庫