沓掛良彦「サッフォー 詩と生涯」読了。
本書「サッフォー 詩と生涯」は、1988年(昭和61年)に刊行された研究書である。
この年、著者は47歳だった。
サリンジャー『大工よ』と夏目漱石『三四郎』
サリンジャーの中編小説「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」のタイトルは、ギリシアの女流詩人サッフォーの作品に由来している。
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ。エアリーズさながらに、丈高き男の子にまさりて高き花婿きたる。愛をこめて。先のパラダイス放送株式会社専属作家アーヴィング・サッフォより」(サリンジャー「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」野崎孝・訳)
「パラダイス放送株式会社専属作家アーヴィング・サッフォ」とあるのは、何かのパロディだろうが、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ。エアリーズさながらに、丈高き男の子にまさりて高き花婿きたる」は、明らかにサッフォーの祝婚歌からの引用だからだ。
サッフォーと言う古代ギリシアの女流詩人の名前は、ヨーロッパにおいては古くからよく知られていたものらしい。
夏目漱石の青春小説『三四郎』の中にも、サッフォーの名前が登場している。
よし子は足を芝生の端まで出して、振り向きながら「絶壁ね」と大袈裟な言葉を使った。「サッフォーでも飛び込みそうな所じゃありませんか」美禰子と三四郎は声を出して笑った。そのくせ三四郎はサッフォーがどんな所から飛び込んだか能く分らなかった。(夏目漱石「三四郎」)
明治末期の読者が「サッフォー」という名前を理解していたのかどうか謎だが、少なくとも、現代の日本人にとって、サッフォーは決してメジャーな名前ではない。
それは、著者(沓掛良彦)が本書『サッフォー 詩と生涯』を刊行したバブル時代の日本においても同様だった。
本書は、今に至るまで貴重なサッフォーの研究書となっている。
悲恋の投身自殺伝説とレスビアン問題
サッフォー(サッポとも呼ばれる)は、紀元前7世紀から6世紀にかけて、エーゲ海に浮かぶレスボス島(ギリシア領)に実在していた女性詩人である。
彼女の作品は断片的に伝えられているだけだが、ヨーロッパでは古くから著名な詩人の一人として知られており、ボードレールやジャン・コクトー、バイロン、プーシキンなど、多くの文学者の作品の中に、その名前が登場している。
ちなみに、かの詩人ブラウニングの妻で女流詩人のエリザベス・バレット・ブラウニングの「詩人たちの幻影」という詩の中にも、サッフォーのレウカスよりの投身に触れた一節がある。(沓掛良彦「サッフォー 詩と生涯」)
作品と同じくらいにサッフォーの名前を有名にしているのが、俗に言う「サッフォー伝説」である。
とりわけ、サッフォーが詩人の美青年ファオーンに失恋して、レウカスの崖から身を投げて自殺したという伝説は、古くから広く知られているところだが、本書によると、こうした伝承は、まったくの文学的虚構にすぎないという。
古くから劇作家によって取り上げられ、詩人たちによって歌われ、絵画に描かれ、後にはグノーやマスネの手によってオペラにまでなったことによって、かの詩人の悲恋、投身伝説はあまりにも広く知られるところとなり、今日ではサッフォーの名を聞けば誰しもそれを想い出すほどになっている。(沓掛良彦「サッフォー 詩と生涯」)
実体が見えない故に多くの伝説を生み出したところは、日本の小野小町伝説に通じるところがあったのかもしれない。
サッフォーを語るときに、もうひとつ欠かすことのできないものが、レスビアンに関する問題、いわゆるサッフォー問題である。
すなわち女性間での同性愛者を言う「レスビアン」、それに同性愛者の行為そのものを言う「レスビアニスム」がそれである。いやそれどころか、女性同士の同性愛を指す「サッフィスム」ということばさえあるくらいである。(沓掛良彦「サッフォー 詩と生涯」)
サッフォーの名前は、文学作品以上に、レスビアニスムを体現した女性として知られ、十九世紀ヨーロッパにおいては、女性同士の同性愛の代名詞とさえ考えられていたらしい。
もっとも、サッフォーが本当にレスビアニスムを体現した女性だったか否かについて、結論を出すことは難しいようである。
サリンジャーの作品のタイトルにもなった祝婚歌
サリンジャーの作品タイトルになった作品は、「八九 祝婚歌断章」として紹介されている。
高々と屋根葺けよかし、ヒュメーン! 家建てる男らよ、屋根葺けよかし、ヒュメーン! 入り来る花婿はアレースのごとく丈高く、世の背高き男よりもはるかに丈高ければ。(沓掛良彦「サッフォー 詩と生涯」)
「ヒュメーン」というのは、婚礼の折に唱える祝いの言葉であり、「花嫁が馬車に乗り、花婿と介添人とに付き添われて、行列を従えつつ婚家に向かう折に、その行列の人々の合唱によって歌われたものだろう」との解説がある。
サッフォーの作品のうち、合唱のために作られたことがはっきりと分かる、唯一の詩だが、デーメートリオスは「そのことばは詩よりも散文に適している」と評し、ロマニョーリは、「民衆歌謡の流れを汲むこの祝婚歌のリズムが、活気にみち、魅惑的な優美さを備えている」と称揚した。
花婿を神々や英雄に喩えるのは「makarismos」と呼ばれる手法で、祝婚歌などに見られるものである。
長兄シーモアの幸福を祈るブー・ブーの祈りは、果たしてシーモアの元にまで届いたのだろうか。
書名:サッフォー 詩と生涯
著者:沓掛良彦
発行:1988/11/15
出版社:平凡社