庄野潤三「せきれい」読了。
本作「せきれい」は、1998年(平成10年)4月に文藝春秋から刊行された長篇小説である。
この年、著者は77歳だった。
初出は、1997年(平成9年)1月~12月『文学界』(連載)。
長年の友を失った喪失感
庄野潤三の代表作として人気がある「夫婦の晩年シリーズ」は、10年間に及ぶ連載期間の中で、『貝がらと海の音』から『星に願いを』まで計11作品を数えた。
①貝がらと海の音(1996)
②ピアノの音(1997)
③せきれい(1998)
④庭のつるばら(1999)
⑤鳥の水浴び(2000)
⑥山田さんの鈴虫(2001)
⑦うさぎのミミリー(2002)
⑧庭の小さなバラ(2003)
⑨メジロの来る庭(2004)
⑩けい子ちゃんのゆかた(2005)
⑪星に願いを(2006)
一般に、老夫婦の穏やかな暮らしをスケッチした作品群として知られている「夫婦の晩年シリーズ」だが、繰り返し読みこんでいくと、表面的な「老夫婦の暮らし」というモチーフの奥に、より深いテーマを探り当てることができる。
本作「せきれい」のタイトルは、庄野夫人のピアノ練習曲の曲名である(作曲者はプルグミュラー)。
午前中のピアノのおさらいをしていて、弾いていた妻が笑い出す。(略)仕事机の前から、「笑ってちゃいけないね」というと、「うまいこと下って来ないの」「何ていう曲?」「せきれい」(庄野潤三「せきれい」)
物語では、妻の「せきれい」が、なかなか合格しない(ピアノ教室で先生のオーケーが出ない)という話が繰り返される。
「でも、せきれいはひどいの」と妻はいう。プルグミュラーの「せきれい」にはよくよく手こずっているらしい。(庄野潤三「せきれい」)
「三」に入って、妻の「せきれい」は、ようやく合格へ近づいてくる。
ピアノのおけいこから帰った妻に、「いかがでしたか?」と訊く。だめといってから、「せきれいは、もう一回弾いてみて下さいといわれた」とうれしそうにいう。えんえんと弾いて来た「せきれい」も、いよいよ上げて頂ける日が近づいたらしい。(庄野潤三「せきれい」)
次のピアノ教室で、妻の「せきれい」は合格した。
ピアノのおけいこから帰った妻に、「いかがでした?」と訊く。「せきれい、上げて下さった」「コングラチュレイションズ(おめでとう)」(庄野潤三「せきれい」)
そして、「せきれい」の合格の直後に、小沼丹の訃報が届く。
夕方、吉岡達夫から電話かかり、「小沼が昨日のお昼、十二時半に病院で肺炎で亡くなった。家族だけで葬儀をすませて、小沼はもうお骨になって家に帰った。さっき奥さんから電話があった」という。(庄野潤三「せきれい」)
「せきれい」の合格と引き換えに届いた小沼丹の訃報は、果たして偶然だったのだろうか。
小沼丹には「鶺鴒(せきれい)」(1978)という短篇小説がある(『山鳩』所収)。
昔、春の一日、埼玉県の弘光寺と云う寺に行って、それから隣町にある埴輪造りの名人の工房を訪ねたことがある。──埴輪造りの名人がいて、その名人の話を聴きに行くことにしたんだが、どうだ、一緒に行かないかね? 清水町先生に誘われて、友人の吉岡と一緒に随いて行った。(小沼丹「鶺鴒」)
井伏鱒二の誘いで、吉岡達夫と一緒に弘光寺へ出かけたときの思い出が、そこでは綴られている。
「埴輪の馬」(1976)の姉妹編と言っていい。
小沼丹が亡くなったとき、妻の弾く「せきれい」は、あたかも、亡き盟友を送る弔いの曲として機能していたのではないだろうか。
夜のハーモニカで「カプリ島」が繰り返されるのも、あるいは、小沼丹に捧げられたものだったかもしれない。
夜、いつものハーモニカは、一曲だけにして、小沼の好きだった「カプリ島」を吹く。(庄野潤三「せきれい」)
小沼丹の訃報が伝えられた「三」以降は、いよいよ、小沼丹への追悼が中心になっていく。
もともと小沼は「カプリ島」のような明るく、軽快な曲が好きだった。毎晩、ハーモニカで「カプリ島」を吹くのも、あの世の小沼をよろこばせ、慰めたいという気持がこちらにあるだろうか。(庄野潤三「せきれい」)
何気ないハーモニカも、小沼丹が死んだ後では、特別の意味を持って聞こえる。
庄野さんにとって小沼丹は、とにかく特別の友人だったのだ。
ピアノの上には、小沼丹の写真が飾られた。
清水さんからこの間頂いたばらを五つ、父母の写真のあるピアノの上に活けてある。(略)そのうしろに父母の写真からはなれて、小さな写真立てに入った十一月に亡くなった小沼の写真がある。(庄野潤三「せきれい」)
小沼丹の思い出は、『文学交友録』(1995)に綴られている。
ただ一つ、せめてもの慰みは、去年の春に新潮社から出た『文学交友録』の最後の章を「小沼丹・庄野英二」として、小沼との四十年に及ぶつきあいを振返って書いたことだ。この本を送ったころはまだ小沼は元気であったから、私の本を読んでくれたに違いない。(庄野潤三「せきれい」)
『文学交友録』で小沼丹は、実兄(庄野英二)との組み合わせでトリを張っていた。
ウタコさんのミュージカル「紳士は金髪がお好き」を観た後は、阪田寛夫と「くろがね」へ行く。
ビールを運んで来た信子ちゃんもよろこぶ。「小沼さんがいちばん来たかったところですから」と妻がいう。「そうだ。この席でよくモン・パリを歌ったんだ」(庄野潤三「せきれい」)
小沼丹は「モン・パリ」のように明るくて楽しい音楽が好きだった。
信子ちゃんは、小沼の教え子で早稲田で教えている大島一彦さんと一緒に清瀬の病院へ見舞いに行った日のことを思い出して話す。(庄野潤三「せきれい」)
大島一彦の著作でも、小沼丹と「くろがね」の思い出は綴られている(もちろん「モン・パリ」も出てくる)。
阪田寛夫は、小沼丹に捧げる「七十一歳のシェイクスピア」を書いた。
阪田は、今度、「群像」の小説(「七十一歳のシェイクスピア」)を書くので、小沼のロンドン滞在の記録である『椋鳥日記』を読み返したことを話す。(庄野潤三「せきれい」)
小沼丹『椋鳥日記』は、1974年(昭和49年)に刊行されたイギリス紀行だ。
二人の師である井伏鱒二は、作品名に難色を示したという。
『椋鳥日記』(河出書房新社)は、早稲田から英国へ留学した小沼丹のロンドン滞在の記録である。これを雑誌に載せたとき、荻窪の井伏さんのお宅で小沼と一緒になった。井伏さんは『椋鳥日記』を読んで居られて、その話になった。「むくどり、ではね」と井伏さんが小沼にいった。(庄野潤三「せきれい」)
阪田寛夫の「七十一歳のシェイクスピア」は、1997年(平成9年)1月『群像』に発表された。
「くろがね」で小沼が、むかしの宝塚の「モン・パリ」の主題歌をうたうところがいい。「わがパリ」というところを小沼さんは「わがァパァリ」とひねりを利かせて歌ったというふうに書いてある。その通りで、なつかしい。(庄野潤三「せきれい」)
「七十一歳のシェイクスピア」は、阪田寛夫から小沼丹へ送るレクイエムとして読むことができる。
庄野さんも「読み終ってみると、小沼のためのよきレクイエムとなっているところに私は感銘を受けた」と綴っている。
小沼丹の死を惜しむのは、阪田寛夫だけではない。
講談社の担当編集(高柳信子さん)と宮田部長が自宅に来て、『ピアノの音』(1997)の出版について打ち合わせをしたときも、小沼丹の話になった。
宮田さんは、「群像」にいたころ、小沼家へよく行った話をする。(略)二人で三鷹や吉祥寺の馴染の酒場へ行く。深夜、小沼を家まで送る。車を路地の入口に待たせておいて、足どりのおぼつかない小沼が無事に家の玄関へ入るのを見届けて車に引返した。(庄野潤三「せきれい」)
南足柄の長女は、大島一彦『ジェイン・オースティン』に「お父さんの名前が出て来たので、びっくりした」と言う。
大島一彦は、小沼丹の教え子でもあった。
大島さんは亡くなった小沼丹の早稲田の英文科での教え子である。私は小沼と一緒の酒席で何度も会ったことがある。小沼がいたら、「よく書けてるね。いいよ」といって誉めただろう。ざんねん。(庄野潤三「せきれい」)
長女は、大島一彦のことを知らなかったらしい。
ついでにしるすと、長女が結婚式をあげたときのお仲人さんは小沼夫妻であった。結婚の話を持って来て下さったのは、荻窪の井伏さんであったが、仲人は小沼がしてくれた。(庄野潤三「せきれい」)
長男も、小沼丹と交流があった。
長男は毎年、正月の二日に小沼家で開かれる新春将棋会に招いて頂いた。いつも出席していた。将棋のあとの宴会では、ウイスキーを飲む小沼のためにいつも水割りを作る役をしていたらしい。(庄野潤三「せきれい」)
小沼丹が亡くなった後、庄野さんの意気消沈ぶりは象徴的に示されている。
朝、脂身に四十雀が来てつつくのをぽかんと立って見ていたら、そこへ妻が来る。「四十雀が脂身つついていた。それ、ぽかんと見ていた」(庄野潤三「せきれい」)
四十雀を「ぽかんと見ていた」とき、あるいは、小沼さんのことを考えていたのではないだろうか。
野鳥好きだった小沼丹には、鳥の名前を冠した作品が多い。
「四十雀」(1978)も、小沼丹の短編小説の題名なのだ(『木菟燈籠』所収)。
あるいは、妻と清水さんの御主人との会話。
次男のところへ行った日。帰宅したら、丁度門の前に車がとまり、清水さんの御主人が出て来て、さげ袋を下さる。(略)妻は、「清水さんのばらを頂くと、庄野は元気が出ます」と御主人に申し上げる。(庄野潤三「せきれい」)
明らかに、元気のない庄野さんの様子が、妻の言葉には含まれている。
来月はじめに渡す「せきれい」三の読み返しを済ませて、十時に妻と生田の駅前銀行へ。(庄野潤三「せきれい」)
『せきれい』の「三」は、小沼丹の訃報が届く特別の物語だ。
小沼丹の死を綴る庄野さんにも、いつもとは異なる感情があったに違いない。
妻の弾くピアノは、プルグミュラーの「さようなら」から「なぐさめ」へと移っていく。
妻はプルグミュラーの「さようなら」の次の「なぐさめ」を予習している。難儀している。(庄野潤三「せきれい」)
あるいは、本作『せきれい』は、庄野さんにとっての「なぐさめ」だったのではないだろうか。
午後、書斎の日の当るソファーで、小沼の最後の随筆集となった『珈琲挽き』(みすず書房)をひろげて読む。(略)小沼が死んだので、もうこんなユニークなことを書いた随筆にはお目にかかれないと思うと、さびしい。(庄野潤三「せきれい」)
庄野さんは、『珈琲挽き』から「落し物」や「帽子の話」を引用する。
「帽子の話」を読んで、そういえばよく小沼は革製のチロリアンハット風の帽子をかぶっていたのを思い出す。なつかしい。糖尿がわるさをして七十八歳で亡くなった。糖尿さえなかったら、まだまだ長生きして、「落し物」や「帽子の話」のようなユニークで愉快な随筆を沢山書いてくれただろう。残念というほかない。(庄野潤三「せきれい」)
「小沼がいなくなってしまったから、もうこんな愉快な随筆は読めないわけで、それを思うとさびしい」と、庄野さんは繰り返す。
それは、長年の友を失った男の、紛れもない喪失感だった。
本作『せきれい』は、庄野潤三から小沼丹へと送るレクイエムだ。
夫婦の穏やかな暮らしの中に、小沼丹を悼む気持ちが満ち溢れている。
小沼夫妻を誘って伊良湖岬にあるホテルへ二年続けて行った。レストランで夕食を食べているとき、フィリピン人のバンドがまわって来た。(略)バンドが私たちのテーブルに来たとき、リクエストをききにきた女に心づけを渡し、小沼が、「カプリ島」といった。(庄野潤三「せきれい」)
小沼さんの好きだった「カプリ島」の歌詞を調べてくれたのは長女だった。
思い出はるかのカプリ
緑もえる島よ
花の香ゆたかに香る
夢のくによ カプリ
あこがれ 今なお消えぬ
なつかし君は いづこ
いつの日か又たづねん
うるわし島 カプリ
長女は、中学校のときに音楽の好きな先生から、この歌を教わったらしい。
エセル中田の歌うラブ・ソングとは異なる歌詞がいい。
本作『せきれい』のBGMには、どうやら「カプリ島」が似合うようだ。
なぜなら、この曲は、長い小説の最後の一行にまで活躍してくれた曲なのだから。
「カプリ島」のあと、妻はやどかりになって、指先で机を打って突進してみせる。(庄野潤三「せきれい」)
そこには、病死した友の好きだったメロデイがある。
生きていることの歓び
小沼丹の死と対比して描かれているのが、生きていることの歓びだ。
一族の集う新年会は、まさに人生を謳歌する者たちの象徴的な祝宴と言っていい。
五時すぎ、みんな席に着き、私の、「皆さん、明けましておめでとうございます」の声で開宴。男はビールで乾杯。(略)私はお酒に移ってから、うな重を食べる。(庄野潤三「せきれい」)
老夫婦の平穏な暮らしとは、すなわち、生きている喜びを凝縮したものに他ならない。
作家にとっての日常とは、つまり、文学的な活動ということである。
大丸のあと日本橋丸善へ。講談社から出たばかりの『ピアノの音』がどんな具合に置いてあるかを見るため。一階の新刊書売場のいちばん目立つ場所に平積みにしてあった。(庄野潤三「せきれい」)
『ピアノの音』は、1997年(平成9年)4月に講談社から刊行された。
本作『せきれい』では、1996年(平成8年)秋から1997年(平成9年)春にかけての庄野一家の日常生活が描かれているが、その集大成のひとつが『ピアノの音』でもあった。
著作の思い出は、随所に描かれている。
この「サヴォイ・オペラ」は亡くなった福原麟太郎さんがお好きで、福原さんの随筆によく出て来る。(略)深夜放送で妻がきいた「ミカド」から十年ほど前に私が打ち込んで書いた『サヴォイ・オペラ』の思い出話を二人で始めた。(庄野潤三「せきれい」)
庄野さんが脳内出血で緊急入院するのは、『サヴォイ・オペラ』を完成させた直後のことだった。
昼食のとき、「『さくらんぼジャム』を読んでいたら、いきなりチープサイドのことをいい出すところがあった」と話す。(略)『さくらんぼジャム』は「文学界」に連載した小説で、三年前に文藝春秋から本になった。(庄野潤三「せきれい」)
『さくらんぼジャム』(1994)は、フーちゃん三部作の完結編。
チープサイドは、井伏鱒二・訳の『ドリトル先生物語』に出てくる都会っ子のスズメの名前で、庄野家にとって『ドリトル先生』は、家族共通の思い出となっている。
今月末に刊行が開始される筑摩の井伏さんの全集のことを話す。小学生のころに『ドリトル先生物語』を愛読していた次男は、井伏さんが好きで、今度出る全集にも関心を持っている。(庄野潤三「せきれい」)
筑摩書房『井伏鱒二全集(全28巻別巻2セット)』は、1996年(平成8年)11月から配本が開始された。
井伏鱒二は、庄野さんの「夫婦の晩年シリーズ」が始まる前、1993年(平成5年)に亡くなっている。
次男と私と同じ誕生日なので、一緒にお祝いの会をすることにして、妻は午前中に支度をする。(略)フーちゃん、「おじいちゃん、お誕生日おめでとう」といって、紙袋を渡してくれる。(庄野潤三「せきれい」)
1997年(平成9年)2月、庄野さんは76歳になった。
庄野夫人は、長女の贈り物(玄関の樽の寄せ植えの花)を見て「泣くほどうれしい」と言って泣いた。
そこには、小沼丹の死を思う気持ちはなかっただろうか。
庄野さんの76年間という時間の中には、78歳で亡くなった小沼丹の人生と重なる時間も少なくなかったのだ。
そして、幼い子どもたちの成長という世代交代。
フーちゃんがはじめて俳句を作った話をする。──あんずの木つぼみもいつか花になる(庄野潤三「せきれい」)
フーちゃんの作った「つぼみもいつか花になる」の俳句は、偶然にも子どもたちの成長を投影した作品として読むことができる。
小沼丹の亡くなった物語に、この俳句が含まれていることの不思議を、どう考えたらいいだろうか。
朝食のとき、夫婦は浅草オペラの話をしている。
浅草オペラで田谷力三の人気は大したものであったという。(略)生田へ越して来る前、練馬の石神井公園にいたころ、或る日、田谷力三の歌を妻と二人でききに行ったことがある。まだ小学校低学年の長女に留守番をたのんで、夕食を食べてから家を出て行った。(庄野潤三「せきれい」)
長女が幼かった頃の思い出は、とりわけ輝きをもって語られている。
四、五日前から妻は、岩波文庫ディケンズの『デイヴィド・コパフィールド』を全巻出して来て、読み始める。読んでいると、むかし『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』(文藝春秋)を書くためにロンドンへ行った折に泊ったホテルのあるストランドの通りを始め、ドルアリーレーンの劇場が出て来るのに感激したという。(庄野潤三「せきれい」)
夫婦の懐かしい思い出は、生きている歓びを共有するモチーフとして読みたい。
まして、ロンドンは、『椋鳥日記』の小沼丹が滞在した街なのだ。
朝食のとき、妻は今読んでいる『デイヴィド・コパフィールド』の話をする。(略)テムプルは先年、『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』を書くためにロンドンへ行ったとき、妻と二人で何度も訪れたところである。(庄野潤三「せきれい」)
『デイヴィド・コパフィールド』を読む庄野夫人の中に、小沼丹を偲ぶ気持ちはなかっただろうか。
二人の平穏な日常の中には、いつでも小沼丹が近くにいる。
庄野夫人が帽子の保管場所を忘れてしまったとき、庄野さんは、小沼丹の随筆の話をする。
妻は、「でも、小沼さんは酔っていたけど、こちらは酔ってもいないのにこんなことして」という。(庄野潤三「せきれい」)
つまり、夫婦の生きている歓びの中には、心を許した友人と過ごした懐かしい日々の記憶が含まれているのだ。
上野の帰り、高田馬場で下車してユタへ。ブレンドコーヒーとミックスサンドを註文する。(庄野潤三「せきれい」)
高田馬場の喫茶店「ユタ」を覚えたのも、小沼丹に誘われて、早稲田大学で授業を持ったときからではなかったか。
物語の隅々にまで、亡き友の思い出が刻み込まれている。
そういう意味で、本作『せきれい』は、小沼丹へ捧げる鎮魂歌なのだ。
「夫婦の晩年シリーズ」全11冊の中でも、本作『せきれい』は(作者・庄野さんにとって)特別の意味をもった物語だったのかもしれない。
書名:せきれい
著者:庄野潤三
発行:1998/04/10
出版社:文藝春秋