河上徹太郎「史伝と文芸批評」読了。
本作「史伝と文芸批評」は、1980年(昭和55年)3月に作品社から刊行された随筆集である。
この年、著者は78歳だった(1980年9月22日に逝去)。
庄野潤三一家との交流
庄野潤三の読者に重要な一篇「『夕べの雲の一家』」が収録されている。
この随想は、1973年(昭和48年)11月に刊行された『庄野潤三全集』の月報に発表されたものだった。
庄野潤三一家と河上徹太郎夫妻との交流については、庄野さんの著作『山の上に憩いあり』(1984、新潮社)や『文学交友録』(1995、新潮社)などに詳しい。
それを河上徹太郎の視点から描いたものが、この「『夕べの雲の一家』」だった。
庄野潤三と河上徹太郎とは「たまたま川崎北部の多摩丘陵に家を構えた縁でおつき合いするようになった」とある。
庄野さんが生田、河上徹太郎が柿生と、少し離れているが、同じ多摩丘陵に暮らす者として、二人は家族ぐるみの付き合いをするようになる。
この『夕べの雲』の一家と昵懇になってもうかれこれ十年になるだろうか? 今高校でサッカーの選手をやっている下の息子さんの和也君が、その頃は小学校の低学年だった。(河上徹太郎「『夕べの雲の一家』」)
正月とクリスマスに互いの家を訪問するのが、両家にとって長年の年中行事となった。
河上徹太郎にとっては、意外な一面と言っていい。
庄野家の子どもたちが、彼を「てっちゃん」と呼んでいることもまた、河上徹太郎の心に響いたのかもしれない。
ある日の散歩でたまたま村の氏神の前へ通りかかった時、庄野さんが一歩前へ出て柏手を打ってお辞儀をすると、あと四人が並んで拝むのである。私はそばにいて面喰った、これに宗教的・思想的な意味をつけてはいけない。素直に庄野さん或いは庄野一家の美しい情操の現れととらねばならぬ。そこに庄野文学の基調があるのだ。(河上徹太郎「『夕べの雲の一家』」)
「私はただ庄野さんの「折目の正しい」人格を語りたかったのだ」と、著者は綴っている。
庄野文学の独創性は、その上で独自な話術で成り立っているのだとも。
福原麟太郎や久保田万太郎の思い出
本書「史伝と文芸批評」には、様々な雑誌や新聞に発表された文芸批評や文壇仲間の回想が収録されている。
例えば「久保田万太郎」。
私はいつも猟から帰ると土間の隅のファイヤー・プレースで薪を燃してビールを飲む習慣だが、作冬数人の客をした時、久保田さんも来て物珍しそうにあたっていた。やがて何やら書いて、傍にいた三好達治に「三好さん、あたしにも詩が出来たよ」といって渡した。三好はそれを読んで、「こんなの、詩じゃありませんよ、小唄ですよ」といった。(河上徹太郎「久保田万太郎」)
それで久保田万太郎は、この詩を山田抄太郎に作曲をさせて、小唄バーあたりで広めさせたという。
この小唄のタイトルは「だんろもゆ」だった。
福原麟太郎の回想「私の中の日本人──福原麟太郎」もいい。
河上徹太郎と福原麟太郎は、昭和28年の夏に外務省の斡旋で、池島新平や吉田健一と一緒にイギリスを訪問している。
四人は「ロンドン会」というグループを作って、夫婦連れで食事をする会を楽しんでいた。
私がつい先生と呼びたくなる人が今まで三人いた。それは菊池寛、辰野隆、福原麟太郎の三氏である。三人とも文壇閥、学歴の上で私の先生ではない。しかもそれが口をついて出て来るのは、いうだけ野暮だが、親しみの加わった尊敬の念からであろう。(河上徹太郎「私の中の日本人──福原麟太郎」)
実際、河上徹太郎の文章には、福原麟太郎に対するリスペクトが溢れている。
こういうリスペクトの籠った文章というのは、読んでいて楽しい。
この他、本書では、牧野信一や横光利一、石川桂郎などの回想録が面白かった。
また「このごろの旅」「座右の書」「私の文章修行」なども、河上徹太郎の交遊関係が分かる楽しい随想である。
こういう随筆集は、あまり難しくなく読みたいと思う。
書名:史伝と文芸批評
著者:河上徹太郎
発行:1980/03/25
出版社:作品社