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「没後15年 庄野潤三展――生きていることは、やっぱり懐しいことだな!」ジャンルを超えた作家の文学と生活の記録

「没後15年 庄野潤三展――生きていることは、やっぱり懐しいことだな!」ジャンルを超えた作家の文学と生活の記録

神奈川近代文学館の企画展「没後15年 庄野潤三展――生きていることは、やっぱり懐しいことだな!」訪問。

本展示「没後15年 庄野潤三展――生きていることは、やっぱり懐しいことだな!」は、2024年(令和6年)6月8日(土)から8月4日(日)まで、神奈川近代文学館の第2展示室で開催されている企画展である。

一般500円。

庄野潤三と阪田寛夫の対談映像から始まる

神奈川近代文学館の「庄野潤三展」神奈川近代文学館の「庄野潤三展」

庄野潤三は、2009年(平成21年)9月21日に88歳で亡くなった、日本の小説家である。

展示タイトル「生きていることは、やっぱり懐しいことだな!」は、庄野さんの古い随筆から引用された。

僕が夏の頂点であるこの時期を一番愛していたということは、僕をよく知る幾人かの人が覚えていてくれるだろう。だが彼等も亦死んでしまった時には、もう誰も知らないだろう。それを思うと、僕は少し切なくなる。

そして、そのような切なさを、僕は自分の文学によって表現したいと考える。そういう切なさが作品の底を音立てて流れているので読み終ったあとの読者の胸に(生きていることは、やっぱり懐かしいことだな!)という感動を与える──そのような小説を、僕は書きたい。

(庄野潤三「わが文学の課題」1959年7月25日『夕刊新大阪』発表、『庄野潤三の本 山の上の家』所収)

庄野文学において永遠のテーマとなった「生きていることの懐かしさ」という言葉が、本展覧会のキャッチフレーズとして引用されていることは興味深い。

展示室入り口前では、阪田寛夫のインタビューに答える庄野さんのビデオ映像が流されている。

これは、2000年(平成12年)11月30日、芸術院の会員記録のために録画されたもので、「対談の相手を阪田にお願いしている」と、庄野さんの作品に書かれている(『庭の小さなばら』)。

書斎でカメラのテストをして、早速、対談のビデオどりを始める。こちら、どんな順序で聞いてもらえばいいか、原稿用紙に項目を十ほど書いて、阪田宛に送っておいた。その原稿用紙をひろげて、阪田は話を聞き出してくれる。(庄野潤三「庭の小さなばら」)

その他、ビデオ録りの様子は『庭の小さなばら』(2003)に詳しくて、作品と生活がリンクしているあたり、いかにも庄野さんらしいところで、作家の生の言葉を視聴できる機会は、かなり貴重だと思う。

展示は「第一部 誕生から上京まで」「第二部 芥川賞受賞から『静物』まで」「第三部 生田の丘で──時を見つめて」「第四部 家族と自然とともに」と、さすがに充実しており、メモを取りながら、じっくりと見て歩くと、半日では終わらないだろう。

会場内には、ミニスカート姿のギャルっぽい女子が2人いて、そのうち、一人の女の子は、スマホでメモを取りながら熱心に観ていたので、日本文学を専攻する大学生だったのだろうか。

トークイベントでも、二人組の男子(大学生?)が参加していて、庄野文学の読者は、若い世代にまで繋がっているらしい。

「第一部 誕生から上京まで」では、1950年(昭和25年)2月『群像』発表の短篇小説「舞踏」の草稿に注目。

「舞踏」は『群像』の創作合評にも取り上げられ、終りがまずいと云う点を除けば概して好評であった。その時の出席者は宇野浩二・高見順・平野謙の三氏であった。(庄野潤三「『舞踏』の時」)

『群像』掲載時との異同があるほか、作品集『愛撫』収録時にも、ラストシーンが変更されたという(『群像』初出時、妻は失踪して自殺するらしい)。

1953年(昭和38年)10月3日、上京したときの仲間たちによる寄せ書き(「庄野潤三君東京新宅秋長夜之宴」)。

私たち一家を乗せた特急「はと」が東京駅に到着して、窓の外を見ると驚いた。東京在住の私の文学仲間の吉行や安岡らがいっぱい待ち構えていて、「やあ、来た来た」とばかり私たちを迎えてくれた。(庄野潤三「私の履歴書」)

「第二部 芥川賞受賞から『静物』まで」では、日本経済新聞連載時の『ザボンの花』の切抜きがある(堀文子の挿し絵がいい)。

ガンビア時代に、ニコディム夫妻やミノー・エディノワラと一緒に撮った写真。

ニコディムさんは千羽鶴を折る娘の人形を見て、優しい顔だといって感心する。ほかに妻が留守宅の三人の子供、夏子、龍也、和也の写真を上げる。その写真を受取ったニコディムさんが、「これがナツコ、これがタチア……」といいかけると、妻が泣き出した。(庄野潤三「懐しきオハイオ」)

1957年(昭和32年)9月15日付けで、アメリカから長男・龍也へ送った絵葉書もある(当時、龍也は5歳だった)。

ガンビアシリーズの登場人物は、庄野文学の超レギュラーメンバーなので、まるで知らない人のような気がしない。

留学中に綴った記録(いわゆる「ガンビア・ノート」)も展示されていて、一部、内容を見ることもできた。

再現された庄野潤三の書斎

庄野潤三の書斎を再現した部屋は、写真撮影オーケーだった。庄野潤三の書斎を再現した部屋は、写真撮影オーケーだった。

「第三部 生田の丘で──時を見つめて」では、開発が始まる以前、生田の丘で撮影された写真が、いくつも展示されている(いわゆる『夕べの雲』の時代)。

郷土資料としても、貴重なのではないだろうか。

庄野さんの作品は、ひとつの<生田風土記>として読むこともできる。

「山の上の家」を縮小再現したミニチュア模型(栗原茂制作)は、庄野家の間取りを俯瞰的に理解することができる(狭いながらも、意外と部屋数が多かった)。

新築披露の日に、新居の台所で撮った家族五人の写真もいい。

四月二十九日はいい天気に恵まれた。小田急の各駅停車で新宿から来た井伏さん、小沼、吉岡、村上菊一郎さんらを生田の駅で迎え、「まん中の道」を歩いて家まで案内した。(庄野潤三「私の履歴書」)

新居披露の祝宴写真には、阪田寛夫の姿もある。

早稲田大学講師委嘱状は「昭和38年4月1日」付けで、庄野さんは一年間、英語講師を務めた(小沼丹や横田瑞穂と同僚だった)。

読売文学賞を受賞した『夕べの雲』が連載された日本経済新聞の切抜きもある(1964年9月6日から1965年1月19日まで)。

『夕べの雲』は私たち一家が多摩丘陵の一つの丘に移り住んだ最初のころの生活をそのまま描いた小説だが、この本が世に出てから三十年になり、主人公の大浦夫婦、つまり私と妻の二人は、今もこの『夕べの雲』の舞台である丘の上に住んでいる。(庄野潤三「『夕べの雲』の丘」)

挿画は安西啓明で、庄野さんの新聞連載小説は、生涯を通して、『ザボンの花』と『夕べの雲』の2作品だけである(いずれも『日本経済新聞』)。

野間文芸賞受賞の名作「絵合せ」の原稿も展示されているが、当時の実物(絵合せカード)は、やはりなかった(百人一首はあるのだが。残念)。

今度読み返してみて、長女の結婚式の日が近づいて来るころの私たち一家の日常生活が細かく描かれているのに驚いた。私はノートをつけていたのだろうか?(庄野潤三「『絵合せ』を読む」)

長篇『雉子の羽』の取材ノートは、かなり精緻な印象。

福原麟太郎が絶賛した名作短編「葦切り」取材時の記念写真には、<篠崎さん>のモデルとなった歌人・松本静泉も収まっている。

篠崎さんから貸して頂いた私家版の歌集が四冊ある。はじめの一冊はプリント孔版、次の謄写刷り、あとの二冊は自家のものを製本してある。その中から私はいくつかの歌を書き抜いて持って来た。(庄野潤三「葦切り」)

『葦切り』は、現在入手が難しいので、小学館の<P+D BOOKS>あたりで復刊してもらえないだろうか(オリジナルの短篇アンソロジーでもおもしろい)。

河上徹太郎夫妻と庄野一家(5人)の記念写真は、『山の上に憩いあり』を読んだ者にとっては、切なくて懐かしいものだ(河上さんの愛犬ジョリも)。

夕食の支度が出来て、食卓につくと、子供らにも一人前に牡蠣、平目のお造りなどの前菜が用意され、大きな七面鳥のロースト(浜焼きの)が出る。これにカリフラワーのグラタンとサラダのドレッシング。それと酒。ソファーへ移ってから龍也と和也の「コヨーテの歌」、妻と夏子の二重唱。(庄野潤三「山の上に憩いあり」)

国立西洋美術館で偶然に会ったときに撮影された、福原麟太郎と庄野さんとのツーショット(1970年10月9日)。

上野の西洋美術館は何の展覧会であったか思い出せない。招待日で、入口の近くで開場を待っていたら、雑誌のカメラマンに附き添われた福原さんが来た。グラビアの写真を撮るためだと分ったが、福原さんは、僕はまだあなたと一緒の写真を一枚も持っていない、ここで撮って貰いましょうといわれた。(庄野潤三「福原さんを偲ぶ」)

庄野さんが招待されていたのは「英国風景画展: ターナー/コンスタブルとその周辺」だったと思われる(1970年10月10日から11月23日まで開催)。

「第四部 家族と自然とともに」では、晩年の庄野さんの姿を、数多く見ることができる。

神奈川文化賞と勲三等瑞宝章をダブル受賞したときの祝賀旅行の記念写真は、1994年(平成6年)1月8日、箱根・きのくにや旅館で撮影されたもので、小学一年生だったフーちゃんの姿もある(紺色のジャンパースカートを履いている)。

私が七十二歳の年の秋に、神奈川文化賞と秋の叙勲の勲三等瑞宝章を頂いた。その折に長女が企画をたてて、今年一月に家族全員集まって箱根芦の湯一泊大旅行というのが実現した。「山の下」の長男一家、読売ランド前の次男一家に南足柄の長女の一家が、一人も欠けないで十五人揃って、この一泊旅行に参加した。(庄野潤三「貝がらと海の音」)

長男・龍也の家で飼っていた「うさぎのミミリー」の写真。

2006年(平成18年)1月1日の記念写真は、元気なときに撮影された最後の写真となったらしい(この年の9月に脳梗塞で倒れた)。

何度も読み返した小説の中に登場する人々の姿が、写真の中にある。

トークイベントで、夏子さんは「父は絶対に実際にあったことしか書かなかった」と話していたが、つくづく庄野文学は不思議な世界だと思う。

私小説とか身辺小説とかいうジャンルを越えて、庄野一族の場合、暮らしそのものが、一つの文学作品だった。

実在の人物が、小説の登場人物を真似るのではなく、実際の生活が、小説の中で再現されていたのである。

庄野さんは、やはり、既成のジャンルを超えた、新しいスタイルの作家だったのだ。

「そんな風な味は、誰がもっているかしら? 八十八夜のうたの世界は。みんな西洋風の文学だもの。佐藤春夫にしても西洋風だから。誰にあるだろう。艶な味の、そして凄愴味のない文学といったら」(庄野潤三「前途」)

フィクションとかノンフィクションとかいう文類が、もはや意味をなさないほど、庄野さんの作品は、実際の生活に根付いていた。

そうした生活の記録(庄野さんの言葉で言うと「ヒューマン・ドキュメント」)を、この展覧会では(小説以外の形として)見ることができる。

庄野文学の読者にとっては、何度も通って観たくなる、充実の展覧会だった。

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。