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片岡義男『夏と少年の短篇』複雑な家庭環境を生きる若者たちのハードボイルドな青春

片岡義男『夏と少年の短篇』あらすじと感想と考察

片岡義男『夏と少年の短篇』読了。

本作『夏と少年の短篇』は、1992年(平成4年)10月に東京書籍から刊行された短編小説集である。

この年、著者は53歳だった。

片岡義男にしか描けないクールな世界観

本作『夏と少年の短篇』は、<夏>と<少年>(あるいは少女)が登場する短編小説を収録した作品集である。

どの作品も、夏が背景で、少年(あるいは少女)が主人公となっている(高校生が多い)。

汗ばむような夏の描写が続くが、片岡義男のドライタッチな文章表現は、次々と展開する夏物語をクールに演出しており、ここに綴られているのは、暑苦しくない夏の物語群だ。

作品集全体を通して感じられることは、すべての物語が、どこにでもありそうな日常生活を背景にしている、ということである。

夏の作品集だからといって(しかも80年代の)、リゾートとか、高校野球(甲子園)とか、夏休みの家出(冒険旅行)とか、わざとらしくて、いかにもな演出は、まるでない(夏の物語の舞台としては、むしろ地味なものが多い)。

ただし、登場人物の家庭は、それぞれにいささか複雑で、おまけに、主人公は誰も大学進学なんて考えたりしない。

片親だったり、親とは離れて暮らしていたりする彼らは、高校を卒業したら、旅でもしながら自由に暮らしたいと考えている。

と言って、彼らが逃避傾向を持っているというわけでもなく、彼らは、それぞれに誠実で、真摯に青春と向き合っている。

どちらかと言えば、熱気に惑わされやすい夏の青春小説なのに、かなりにクールだと感じられる理由は、彼らが、どこまでも折り目の正しい好青年ばかりだからかもしれない。

こうした作品群によって導き出されているのは、生きることの多様な選択肢である。

両親は二人揃っていなければならないとか、高校を卒業したら大学へ進学しなければならないとか、進学しない者はすぐに就職しなければならないとか、古い固定観念からの解放が、そこにはある。

例えば、「夏はすぐに終る」は、自動車で旅をしている青年(中尾晴彦)が、高校時代の同級生(真理子)を訪ねる放浪の物語だ。

県道にも真夏が始まっていた。東西にのびる二車線の道路の両側には、夏草が丈高く密生していた。路面のアスファルトの色と、土ぼこりにくすんだ夏草の緑色とが、強い太陽の光を重そうに受けとめていた。晴れた空はくっきりと青かった。その青い空のところどころに、まるで絵に描いたかのように、白い雲が浮かんでいた。(片岡義男「夏はすぐに終る」)

灼けつくような真夏の描写に続いて、若い男女の久しぶりの再会が描かれるが、二人は決してヒートアップしたりしない。

まったく大人めいたような会話の後で、あっさりと次の約束を交わし、二人は別れてしまう。

あるいは、二人の落ちついた会話こそ、80年代的な「背伸びした物語」だったとも言えるが、<燃えるような青春>とはほど遠い彼らの冷静さは、本作『夏と少年の短篇』の大きな特徴ともなっている(それが、つまり、片岡義男という作家の魅力でもあるのだが)。

「時間順に貼ってある写真のなかに、二十歳の誕生日のスナップがあったのですって。その写真の下に、確かに自分の字で、『二十歳!』と書いてあるのを見て、涙が出そうになったと言ってたわ。二十歳の夏に自分はなにをしてたのか、思い出そうとして必死になっても、なにも思い出せないのですって」(片岡義男「夏はすぐに終る」)

看護婦になるための学校へ通っている真理子は、実習の先生(30歳)から聞いた話を紹介するが、<すぐに終わってしまう夏>は、つまり、彼らの青春そのものだった(青春の日も短いということ)。

「二十歳の夏に自分はなにをしてたのか、思い出そうとして必死になっても、なにも思い出せない」という大人のメッセージが、間もなく、二十歳を迎えようとしている男女の会話を通して描かれているが、こうした著者の主張は、淡々としたストーリーと同様に、決して押しつけがましくなく、あくまでもさらりとナチュラルに織り込まれている。

「あの雲を追跡する」(1991年10月号『野性時代』)は、転校してきたばかりの女子生徒(西野亜紀子)と一緒に海岸の街を訪れる男子高校生(坂本裕一)の非日常的なストーリー。

太陽は頭上にあった。よく晴れた空は、あまりに晴れて陽ざしが強いため、午後のこの時間には、青さの上にうっすらと白い色が重なって見えていた。県道ぜんたいが、照りつける黄色い陽ざしのなかだった。どちら側にならぶ商店にも、陽が当たっていた。(片岡義男「あの雲を追跡する」)

2人の高校生カップルは、まるで大人の男性と女性のように、理性と秩序を持って、夏の海を楽しんでいて、ティーンエイジャーのムンムンした性的欲望とか、爆風スランプが歌った一夏のアバンチュール(リゾラバ)みたいに無責任な開放感など、どこにもない。

主人公は、女の子と一緒に夜明けの海を見て「これ以上を望んではいけないのだ」と思う。

これ以上なにもいらないと思いつつ、裕一は大きくのけぞり、後方の空を仰ぎ見た。ちぎれた白い雲がひとつ、かなりの速度で海岸と平行に流れていた。いまの自分がさらになにか望むとするなら、あの雲を追いかけることくらいだと、裕一は思った。(片岡義男「あの雲を追跡する」)

刺激的なエンターテメントに毒された頭には、あるいは、物足りないと感じられるかもしれないが、特別のことは何もない物語の中に、十八歳の少年が抱えるリアリティがある(彼は片親の母親とも離れて暮らしていた)。

夏の小説だからといって、無軌道に開放的ではないし、複雑な家庭事情を持つ少年の物語だからといって、特別に感傷的なわけでもない。

ここに、片岡義男にしか描けないクールな世界観がある。

不安定な青春を生きる若者たち

外国文学のようだと評されることの多い片岡義男だが、本作に登場する物語の舞台は、我々が生きるごく普通の日常だったりする(多くの場合、1980年代末期の、いわゆるバブル時代と呼ばれる日本の日常)。

そして、そこで描かれる日常は、「夏と言えば海」といったような、ステレオタイプの夏ばかりではない。

平凡な男子高校生(伊藤洋介)と女子高生(遠山恵理子)がキャッチボールをする「私とキャッチ・ボールをしてください」(1992年6月『野性時代』)は、河原の野球グラウンドが、物語の舞台となっている。

「私とキャッチ・ボールをしてください」「キャッチ・ボールを?」「ええ」「きみが?」「そう。私が」「キャッチ・ボールを」「してください」(片岡義男「私とキャッチ・ボールをしてください」)

ごく短い言葉で、淡々と交わされる男女の会話には、スポーツを感じさせるような熱気が、まるでない。

片親同士の高校生カップルは、やがて両親を交えて食事するようになるが、その過程は、恋愛小説とさえも言えない。

スポーツ小説でもなく、恋愛小説でもない、高校生カップルによるキャッチボールの物語。

この<熱気のこもっていない物語>というところに、片岡義男の小説がクールだと言われる所以があるのだろうか。

特別な展開はないのに、二人の両親が、子どもたちと一緒に夕食を食べることが決まったというだけで、爽やかなハッピーエンドの物語という印象を強くする。

「which 以下のすべて」(1991年5月『野性時代』)は、美しすぎる英語教諭(風祭百合絵)に憧れる男子高校生(佐々木祐一)の物語。

「カンマのある which は『そしてそれは』と訳する」という参考書の記述について、百合絵は説明していた。「カンマのない which の場合は、which 以下のすべてを下から訳す」という記述についても、彼女は丁寧な解説を加えた。ノートのなにも書いてないページのいちばん上の行に、which 以下のすべて、と祐一は鉛筆で書いた。(片岡義男「which 以下のすべて」)

そこに、同じプール部員の山形多恵子が加わって、三人は幼い三角関係のようなものを形成するが、当然のように、それ以上の進展はない(whichという単語は、どちらの女性を選ぶのか?といった意味にも読める)。

主人公はガールフレンド(多恵子)の選んでくれたTシャツを、風祭先生にプレゼントし、そのことに多恵子が気がついたところで、物語は終わる。

多恵子は立ち上がった。その動きにしたがうようなかたちで、祐一は多恵子をふり仰いだ。彼の目をまっすぐに見下ろして、「あのTシャツを英語の先生にあげたでしょう」と多恵子は言った。(片岡義男「which 以下のすべて」)

特別のドラマは展開しないものの、百合絵の授業に登場する「which 以下のすべて」というフレーズが、この青春小説を都会的で洗練された青春小説として仕上げているあたり、いかにも片岡義男的な作品と言える。

「おなじ緯度の下で」は、異母姉(松原愛子)に恋をした男子高校生(西野哲也)の物語。

二人の母親(松原美代子と後藤三枝子)は、どちらも既に父親(西野哲郎)とは離婚していて、元嫁同士で親友のようになっている。

一メートル四方ほどの大きさの、きわめて詳細にディテールの描きこまれた地図だった。いま哲也がいる町が、上下のほぼ中央、右端の近くにあった。その町の真上を、緯度を示す細い線が、まっすぐに横切っていた。(片岡義男「おなじ緯度の下で」)

主人公は、母親(三枝子)の提案で、愛子をプールへと誘う。

複雑な家庭の中で得られる、ささやかな幸福感が心地良い。

自己肯定感の低い女子高生(福島邦子)の淡い初恋を描いた「永遠に失われた」(1988年12月『野性時代』)は、<夏と少年>というテーマから、少し外れているようだが、高校生男女の海辺の出会いが爽やかな作品。

十七歳までなら、自分はこれまでどおりの自分だ。しかし、十七歳を終ってしまうと、自分はなにかまったく別の存在になってしまうのではないかと、邦子は理由なく不安な気持ちでいた。これまでの自分がどこかへいってしまい、そのかわりに、十八歳、十九歳といった、得体の知れない自分が出現してくるのだ。(片岡義男「永遠に失われた」)

不安定な青春を生きる女子高生は、理想の男性との出会いによって、自分の殻を一つだけ破ることができる。

何ということのない日常生活に描かれているのは、平凡な女子高生の成長物語だ。

二度と出会うことのできない男性との出会いと別れ。

どこにでもありそうで、実はどこにもない物語が、そこにはある。

そしてその写真を撮った瞬間、つまりたったいまは、あの初恋が完全に終った瞬間でもあった。すべての記録であると同時に、すべてが終った瞬間でもあるような、一枚の写真。それを撮っておこうと邦子は思い、一枚だけいま撮った。(片岡義男「永遠に失われた」)

淡い初恋の終わりと向き合う少女の姿こそ、青春(そして成長の)の象徴だったのかもしれない。

最後に、「エスプレッソを二杯に固ゆで卵をいくつ?」(1992年5月『野性時代』)は、十四歳の美少女(神崎里里葉)の目を通して、離婚したばかりの母親(恵子)の生き様を描いた物語で、文章の多くを主人公(里里葉)による友だち(加藤帆奈美)との会話が占めている(しかも電話なのでほぼ独白)。

少年がまったく登場しないという意味では、本作品集では異質の存在となった。

「朝食が面白いよ、恵子さんは。エスプレッソと固ゆで卵なのよ、いっつも。毎日、毎日、おんなじ。朝食だけはね。もうずっとそうなんだって」(片岡義男「エスプレッソを二杯に固ゆで卵をいくつ?」)

離婚してシングルマザーとなった母親(恵子)と里里葉は、今で言う「友だち親子」だが(里里葉は母親を「恵子さん」と呼んでいる)、<エスプレッソと固ゆで卵>という朝食メニューを通して、母の娘の微妙な絆が描かれている。

離れた父親との再会を、母親から尋ねられる場面は、いかにも、80年代のアメリカ文学を思わせるものだ。

「神戸はどうだったの?」恵子が食卓からきいた。里里葉は恵子に顔をむけた。そして、まったくどうしようもなかった、という意味をこめ、そのような表情を作り、里里葉は目を閉じて首を振った。深い魅力的な微笑が、ゆっくりと恵子の顔に広がった。(片岡義男「エスプレッソを二杯に固ゆで卵をいくつ?」)

不安定な家族関係は、当時のアメリカ文学にとって、大きなテーマの一つだったが、本書収録作品に登場する複雑な家庭事情を抱えた多くの登場人物たちにも、80年代アメリカ文学の匂いを感じることができる。

まとめるとすれば、本作『夏と少年の短篇』収録作品に描かれているのは、様々な若者たちが生きる<不安定な青春の日々>だ。

ともすれば感情的になりそうなエピソードばかりだが、片岡義男の硬質で渇いた文章は、若者たちの姿を浮ついた物語として描くことなく、ドライタッチのクールな青春小説として引き締めている。

いわゆる<ベタベタの青春>とは異なる、ある意味で<ハードボイルドな青春>が、そこにはあった。

蒸し暑い日本の夏には、このくらいにハードボイルドな青春が、案外ちょうど良いのではないだろうか。

書名:夏と少年の短篇
著者:片岡義男
発行:1992/10/7
出版社:東京書籍

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。