庄野潤三の中編小説「鳥」読了。
「鳥」は、昭和38年「群像」7月号に掲載され、作品集『鳥』(講談社、1964年)に表題作として収録された作品である。
庄野さんは、和子と明夫と良二という3人の子どもたちが登場する5人家族の物語を、昭和40年代を通して書き続けているが、「鳥」は和子と明夫と良二という名前の3人姉弟が初めて登場した作品らしい。
ちなみに「鳥」の中では、和子は中学3年生、明夫が小学5年生、良二が小学1年生である。
「鳥」は、全部で17篇の細切れな物語を組み合わせて、ひとつの中編小説として完成されている。
すべての物語は、語り手である「彼」こと「小川」の視点でとらえられた、5人家族の日常生活をスケッチしており、形態としては、庄野文学の代表的な作風である家族小説だが、その後、展開していく作品群と比べると、テーマが幾分暗くて重い。
カスミ網で捕まえてきたホオジロが死んでしまったり、街の葬儀屋で棺桶を作る光景を眺めていたり、父が死んだときのことを思い出してみたり、タンメンを食べた街の食堂の店員が葬式に参列した話をしていたり、作品のあちこちが「死」に繋がっているかのようだ。
元来、庄野さんの小説の特徴は、一見平穏な夫婦生活の暗い影を浮き彫りにするところにあったが、「鳥」は一見平穏に思われる5人家族の暗い影を、どこかで意識しているようにも思われる。
父である「小川」は、子どもたちに海軍式の敬礼を覚えさせるだけでなく、「舎前集合、五分後」という号令をかけて、冬休み中の子どもたちを目覚めさせる。
初期の夫婦小説が家族小説へと移り変わる頃、小説のテーマは、著者自身の中でも、まだ定まっていなかったのかもしれない。
細切れのスケッチを積み重ねて、ひとつの作品を構築するといった作風は、庄野さんの中で、ある程度、定着したものになっていたようだ。
幸運なだけの人生がないように、不運なだけの人生もない。
いまみたいに、歌の途中でへんな風になって来て、到頭声が出なくなるのは、死ぬ時と似ているのだろうか。父親である自分が死ぬ時は、こんな風にまわりにみんながいて、しっかり、しっかりと応援してくれる。そういう景色と似ているだろうか。(「十一」)
良二の提案で、5人家族は自分たちの歌声をテープレコーダーへ録音しておくことになった。
初めに、母と和子が二重唱を歌い、次に良二が「ローレンジャー」を歌い、それから父である「彼」が「冬の夜」を歌ったが、うまくいかないので、家族みんなが笑って励ましてくれる。
明るくて楽しい家族団らんのひとコマだが、「彼」は、「父親である自分が死ぬ時は、こんな風にまわりにみんながいて、しっかり、しっかりと応援してくれる。そういう景色と似ているだろうか」と、自分が死んだときのことを考えている。
日常生活のいろいろな細かいことが「死の影」を連想させ、今は幸せな家族の不吉な将来を予言していく。
幸せと不幸、幸運と不運、光と影。
庄野さんの小説には、そういう人生の対称的な部分を意識して書かれたものが多いらしい。
光と影は、つまり表裏一体であって、人が生きていくうえで不可分のものである。
幸運なだけの人生がないように、不運なだけの人生もない。
幸せな光景に焦点を当てれば不幸な面が浮かび上がるし、不幸な場面に焦点を当てることで見えてくる幸せもある。
初期の庄野文学には、立体的な人生を再現する上での巧みな計算が、あちこちでちらついている。
書名:鳥
著者:庄野潤三
発行:1964/5/20
出版社:講談社