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第三の新人・庄野潤三のプロフィールを詳しく紹介します

日本の小説家・庄野潤三のプロフィール

庄野 潤三(しょうの じゅんぞう、1921年(大正10年)2月9日 – 2009年(平成21年)9月21日)は、日本の小説家。大阪府生まれ。九州大学東洋史学科卒。次兄は児童文学者の庄野英二、末弟はエッセイストの庄野至。

『プールサイド小景』で芥川賞受賞。いわゆる「第三の新人」の一人に数えられる。初期には夫婦生活を、また、中期以降は家族の暮らしを題材とする作品を多く発表した。特に、晩年期に手掛けた「夫婦の晩年シリーズ」の人気は高く、「静かなブーム」と呼ばれることもある。芸術院会員。

来歴

ここでは、庄野潤三の主な経歴を掲載している。

詳細は「庄野潤三の年譜」を参照のこと。

なお、本ブログ内の庄野潤三に関する記事は、カテゴリ「庄野潤三の世界」にまとめてあります。

生い立ち

大阪府東成郡住吉村(現・大阪市)出身。

帝塚山学院小学校・大阪府立住吉中学校を経て、1941年(昭和16年)12月に大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)英語科を卒業。

その後、九州帝国大学法文学部に進学して東洋史を専攻、一学年上に島尾敏雄(小説家)がいた。1944年(昭和19年)10月、戦時中の特例措置で繰り上げ卒業。

1945年(昭和20年)10月、大阪府立今宮中学校(大阪府立今宮高等学校)の歴史教員として就職。1947年(昭和22年)には、野球部長として甲子園大会(第19回選抜中等学校野球大会(1947年))に出場している。

結婚から小説家デビュー

1946年(昭和21年)1月、浜生千壽子と結婚。1947年(昭和22年)10月、長女・夏子誕生。

終戦後、同人誌で小説を発表し続けていたが、1949年(昭和24年)、<新文学>に発表した「愛撫」が文壇の注目を集める。1950年(昭和25年)2月、<群像>に「舞踏」を発表。初めて商業誌の注文を受けて書いた小説だった。

1951年(昭和26年)9月、大阪市立南高校を辞職し、朝日放送へ入社(教養番組の制作を担当)。同僚に、帝塚山学院出身の阪田寛夫がいた。同月、長男・龍也誕生。

芥川賞受賞からアメリカ留学

1953年(昭和28年)6月、「喪服」「恋文」が第29回芥川賞候補となる(1回目)。9月、朝日放送東京支社へ転勤となり、東京都練馬区へ移転。この時期より「第三の新人」の一人に数えられるようになる。

12月、「流木」「会話」が第30回芥川賞候補となる(2回目)。同月、最初の作品集となる『愛撫』を新潮社より刊行。1954年(昭和29年)6月、「黒い牧師」「桃李」「団欒」が、第31回芥川賞候補作となる(3回目)。

1955年(昭和30年)1月、「プールサイド小景」で第32回芥川賞を受賞。4月、「ザボンの花」を日本経済新聞に連載開始。これが初めての長編小説であり、新聞連載小説だった。

1956年(昭和31年)2月、次男・和也誕生。

1957年(昭和32年)、ロックフェラー財団の招きにより夫人とともに渡米、オハイオ州ガンビア村にあるケニオン大学で一年間の海外留学をする。このときの体験は『ガンビア滞在記』として、1959年(昭和34年)に刊行された。

人気作家として活躍

1960年(昭和35年)11月、『静物』により第七回新潮社文学賞を受賞。

1961年(昭和36年)4月、神奈川県生田にある丘の上の家へ移転。この後の庄野文学の聖地となる。

1964年(昭和39年)9月、生田で暮らす五人家族の日常生活を綴った長篇小説「夕べの雲」を<日本経済新聞>に連載開始。この作品は、1966年(昭和41年)2月、第十七回読売文学賞を受賞している。

1970年(昭和45年)3月、『紺野機業場』により第二十回芸術選奨文部大臣賞を受賞。

1971年(昭和46年)12月、『絵合せ』により第二十四回野間文芸賞を受賞。

1972年(昭和47年)7月、『明夫と良二』により第二回赤い鳥文学賞を受賞。同年11月、11月、『明夫と良二』により第二十六回毎日出版文化賞を受賞。

1973年(昭和48年)5月、「作家としての業績」により、第二十九回日本芸術院賞を受賞。同年11月、第二回川崎市文化賞を受賞。

1978年(昭和53年)12月、日本芸術院会員となる。

大病から夫婦の晩年シリーズへ

1985年(昭和60年)11月、脳内出血で入院。翌12月に退院。

1986年(昭和61年)7月、闘病記である「世に隔てて」を<文学界>に連載開始。この作品は、1987年(昭和62年)11月、単行本として刊行された。

1988年(昭和63年)8月、フーちゃん三部作最初の作品となる「エイヴォン記」を<群像>に連載開始。

1993年(平成5年)11月、秋の叙勲で勲三等瑞宝章を受章。同月、神奈川文化賞を受賞。

1995年(平成7年)1月、夫婦の晩年シリーズ最初の作品となる「貝がらと海の音」を<新潮45>に連載開始。夫婦の晩年シリーズは、第十一作目となる「星に願いを」まで10年間続いた。

2006年(平成18年)9月、脳梗塞を発症。

2009年9月21日午前10時44分、川崎市多摩区生田の自宅で老衰のため死去。88歳没。叙従四位。戒名は文江院徳照潤聡居士。

代表作

ここでは、庄野潤三の主な代表作を掲載している。

詳細は別記事「庄野潤三の全著作目録」を参照のこと。

プールサイド小景(1955年)

芥川賞を受賞した表題作を含む短篇小説集。かつての庄野さんは、短篇小説作家としてのイメージが強く、『愛撫』や『静物』などの作品集が代表作として取り上げられることが多かった。微妙な夫婦関係の不安や緊張感を主題としていたことも、初期庄野文学の特徴。

ザボンの花(1956年)

初めての長編小説。東京石神井公園時代の暮らしをモチーフにした家族小説。ささやかな日常生活の中に人生を見つめる。阪田寛夫は「庄野さんの文学の本筋につらなって行く、いちばん初めの湧き水、地面の深いところから出てきたばかりの泉のような作品」と評している。

ガンビア滞在記(1959年)

アメリカ・オハイオ州ガンビア村での暮らしを綴った長編小説。ケニオン大学へ留学した一年間の集大成だが、現地での日常生活を温かい視点で描いている。ガンビアでの暮らしは『シェリー酒と楓の葉』や『懐しきオハイオ』で詳しく再現されているほか、多くの短篇小説となった。

夕べの雲(1965年)

読売文学賞を受賞した長編小説。生田の丘の上で暮らす五人家族をモチーフとした家族小説。庄野さんは、自分の代表作として、必ずこの『夕べの雲』をあげた。五人家族の物語は、野間文芸賞を受賞した『絵合せ』や、赤い鳥文学賞や毎日出版文化賞を受賞した『明夫と良二』へと続いてゆく。

うさぎのミミリー(2002年)

子どもたちが独立して二人きりとなった老夫婦が、どのような暮らしを送っているかを描いた、いわゆる夫婦の晩年シリーズの長編小説。この頃、庄野さんの作品は、若い女性の支持を得て「静かなブーム」と呼ばれた。この夫婦の晩年シリーズは、10年間にわたって全11作品まで続いている。

関わりのある人物

ここでは、庄野潤三と関わりの深い人物を掲載している。

詳細は別記事「庄野潤三の人名録」を参照のこと。

伊東静雄

詩人。庄野さんが住吉中学校一年生のときの国語の先生だった。大阪外国語学校英語部時代、庄野さんは伊東静雄と再会、自宅を訪れて文学を学ぶ。庄野さんの文学的師匠。

井伏鱒二

小説家。石神井公園時代、庄野さんは、しばしば子ども連れで井伏さんの自宅を訪れていた。後に、井伏さんは、長女(夏子)の結婚相手を世話してくれる。古備前の大きな甕を買ったのも井伏さんの紹介。

小沼丹

小説家にして、庄野さんの親友。短篇「秋風と二人の男」は、小沼丹と庄野さんをモデルとしたもの。居酒屋「くろがね」で、井伏鱒二を囲む会のメンバーだった。

阪田寛夫

児童文学者、芥川賞作家。童謡「サッちゃん」の作詞で有名。庄野文学最大の理解者で『庄野潤三ノート』を刊行。小沼丹とともに、庄野作品への登場回数は圧倒的に多い。

福原麟太郎

英文学者、随筆家。イギリスのエッセイスト・チャールズ・ラムを敬愛する福原さんを、庄野さんは強く尊敬していた。

河上徹太郎

文芸評論家。生田の自宅の家開きに招待して以来、家族ぐるみの付き合いをした。庄野家の子どもたちからは「てっちゃん」と呼ばれた。

影響を受けた作家や作品

ここでは、庄野潤三が影響を受けた主な作家や作品を掲載している。

詳細は「庄野潤三の本棚」を参照のこと。

エリア随筆 / チャールズ・ラム

庄野文学の基礎となっているのが、イギリスの代表的なエッセイスト、チャールズ・ラムの代表作『エリア随筆』である。日常のさりげない出来事を文学作品に仕立て上げる英国随筆の世界は、まさしく庄野文学そのものと言っていい。

命なりけり / 福原麟太郎

庄野さんは、福原さんの随筆をこよなく愛した。「もっとも福原さんの随筆には、数え上げればいくらでも傑作が出て来る」「夜空にきらめく星の中からどれがいちばんよく光るか、くらべようというようなものではないか」。

チェーホフ著作集 / 中村白葉訳

若き日の庄野さんが大きな影響を受けたのが、中村白葉の訳によるチェーホフ作品である。ドラマティックなストーリーよりも、人間が生きていく上での素朴な笑いや悲しみに、庄野さんは惹かれていたらしい。

丹下氏邸 / 井伏鱒二

庄野さんが、公私に渡って敬愛していた井伏さんの作品に初めて触れたのが『丹下氏邸』。井伏鱒二訳の岩波少年文庫版『ドリトル先生物語シリーズ』は、庄野一族の愛読書となっている。

わが名はアラム / ウイリアム・サロイヤン

若き日の庄野さんが大きな影響を受けた作品のひとつが、清水俊二さんが訳した『わが名はアラム』。特別に大きなストーリーはないが、人間が生きる喜びや悲しみを繊細な感性で描いている。きっと、庄野さんは、本当に「人間」という存在が、「人生」という営みが大好きだったのだと思う。

参考文献

ここでは、庄野文学を理解するために有用な参考文献を掲載している。

庄野潤三ノート / 阪田寛夫

「庄野潤三全集」(講談社、1973-1974)の月報に掲載された解説を書籍化したもので、庄野文学の研究に必須の作品となってる。著者の阪田寛夫は、大阪朝日放送で庄野さんと同僚で、晩年まで公私に渡る交流を続けた。

山の上の家 庄野潤三の本 / 夏葉社

庄野さんの死後、2018年(平成30年)に刊行された庄野潤三ブック。庄野潤三ファンなら絶対に持っておきたい一冊である。随筆目録や短篇小説目録、全作品解説など、データベースとしても使える情報がいっぱい。

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。