檀一雄「小説 太宰治」読了。
本作「小説 太宰治」は、1964年(昭和39年)に審美社から刊行された長篇小説である。
この年、著者は52歳だった。
太宰治は、1948年(昭和23年)6月13日に38歳で他界している。
女郎屋通いの二人
太宰治と檀一雄の交流は、1933年(昭和8年)から始まった。
当時、檀一雄は、古谷綱武に勧められて、太宰の「魚服記」と「思い出」を読んでいたという。
太宰の処女作品集『晩年』は、まだ刊行されていなかった(『晩年』は1936年刊行)。
「太宰に会いたいんだけど」と私は躊躇なく古谷に云った。「ああ、才能は素晴らしいが、ちょっとつき合いにくい処のある人だよ。そのうちきっと又来るよ」古谷がその時云ったように記憶する。(檀一雄「小説 太宰治」)
間もなく、作者(檀一雄)は、古谷の自宅で太宰と初対面の挨拶を交わす。
「良かったら、いつか遊びにやって来ない。古谷君と」と、その顔がためらって、「何処です?」私が訊くと、ようやく心が安定したとでもいうふうに、感じのある地図をサラサラ描き、飛島方 太宰治「ここです。間借りでね。古谷君も一緒に来ない?」(檀一雄「小説 太宰治」)
作者は一度帰宅した後で、再び外出し、その日、会ったばかりの太宰を家に訪ねた。
鮭缶が丼の中にあけられた。太宰はその上に無暗と味の素を振りかけている。「僕がね、絶対、確信を持てるのは味の素だけなんだ」クスリと笑い声が波立った。(檀一雄「小説 太宰治」)
この年、作者(檀一雄)は21歳、太宰治は24歳だった。
私と太宰の主な交友の期間は、昭和八、九、十、十一、十二年の夏までだ。そうして、太宰の生活と私の生活とが殆ど重って、狂乱、汚辱、惑溺の毎日を繰りかえしたのは十、十一年の大半だ。(檀一雄「小説 太宰治」)
本作『小説 太宰治』は、昭和初期を生きた二人の若者の「狂乱、汚辱、惑溺の毎日」の記録である。
私達の遊蕩、飲酒、懊悩、安息の場は玉の井、新宿にきまっていた。玉の井は十、十一年の船橋に移るまで。新宿は十二年、太宰が荻窪に舞い戻ってきてからである。(檀一雄「小説 太宰治」)
「玉の井」は、東向島にあった私娼街で、永井荷風の『濹東綺譚』で有名となった。
時に山岸外史を加え、若者たちは酒を飲んでは、娼婦を買いに玉の井まで通った(山岸外史にも『人間太宰治』『太宰治おぼえがき』の著書あり)。
「檀君。二、三人の男と通じた女は、これや、ひどい。穢いもんだ。だけど千人と通じた女は、こりゃ、君、処女よりも純潔なもんだ」それは二、三度、太宰が私に云った言葉である。(檀一雄「小説 太宰治」)
太宰は入籍こそしていないが、1931年(昭和6年)以降、小山初代と実質上の結婚生活を送っていた。
二人の放蕩の記録は、その多くが娼婦遊び(女郎買い)の記録に費やされている。
私は今でも、あれを、忘れない。朝の閑散とした開店早々の明治製菓に出かけていって、きまって五十銭の銀貨を二つ出し、「ブレック、ファスト」すると、通い馴れた私達をチラと流し見ながら、白いエプロンの少女が、バター附トーストと、半熟玉子と、一杯の牛乳を持ってきてくれるのである。(檀一雄「小説 太宰治」)
太宰は女房の、檀は妹の衣類を質屋へ入れて、長ければ一週間も、女郎のところに居続けたらしい。
「ねえ。檀君、包茎というものは、これはいいもんだ」と、太宰である。「そうだよ、ギリシャの彫刻はどれを見たって、みんな包茎さ」と、山岸である。「すると、俺達の文学は、包茎の文学というわけだ。こりゃ、ひでえ」と、太宰が体をゆすり、ころげるようにして笑う。(檀一雄「小説 太宰治」)
彼らの女郎遊びは、そのまま、文学につながる原体験となっていたのかもしれない。
「含羞の文学」と太宰はしばらく含み笑っていたが、「原因は、僕は例の過度のアンマじゃないかと思うんだ」太宰はオナニレインのことをいつもアンマというならわしだ。(檀一雄「小説 太宰治」)
マスターベーションを「アンマ」という隠喩で呼んでいたことは、「思い出」にも書かれている(『晩年』所収)。
どうしても寝つかれないので、あのあんまをした。みよの事をすっかり頭から抜いてした。みよをよごす気にはなれなかったのである。(太宰治「思い出」)
当時、二人は、東京帝国大学の学生だったが、授業に通う代わりに女郎屋通いをしていたから、当然、必要な単位なんか取得できるはずもない。
それから間もなくの事だった。井伏さんからの紹介があり、ひとつ泣き落しで、中島健蔵氏を、くどきおとそう、という事になった。(檀一雄「小説 太宰治」)
二人が東大仏文の研究室に中島講師を訪ねたのは、1935年(昭和10年)1月24日のことで、三人でビールを飲みながら、大いに文学を語り、気持ちよく研究室を後にしたという(卒業の話は持ち出せなかった)。
豪快な暮らしをしている太宰治だったが、中原中也には、かなりの苦手意識があったらしい。
太宰は、中原をひどく嫌悪しながら、しかし、近づかねばならない、という、忍従の祈願のようなものを感じていた。会うのを嫌がる時には、事実かどうか甚だ怪しいが、「中原とつきあうのは、井伏さんに止められているんでね」と、云っていた。(檀一雄「小説 太宰治」)
中原中也の酒乱ぶりは、確かにすごい。
「何だ、おめえは。青鯖が空に浮んだような顔をしやがって。全体、おめえは何の花が好きだい?」太宰は閉口して、泣き出しそうな顔だった。(檀一雄「小説 太宰治」)
このとき、太宰は、まるで断崖から飛び降りるような思いつめた表情になって、今にも泣きそうな声で「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と悲しく笑った。
中原中也が「チェッ、だからおめえは」と言った後で大乱闘となり、作者(檀一雄)は草野心平の髪を握りしめていたという(飲み屋「おかめ」の窓ガラスは粉微塵と割れた)。
太宰が飲み屋から逃げ帰ったときは、ひどく激昂して自宅まで追いかけた。
酒乱というよりも狂乱と言った方がいい。
走れメロス誕生秘話と初代夫人の不倫事件
太宰が二度目の自殺未遂をしたのは、1935年(昭和10年)3月のことである。
井伏鱒二の依頼を受けた作者は、失踪した太宰を探して熱海を訪ねる(「太宰は自分の行き馴れたところ以外には、決してゆかない男です。さあ、熱海か三島か江ノ島だな」)。
中村地平は「僕は狂言だと思うがなあ」と主張したが、作者(檀一雄)は「狂言ではない」と直感していた。
翌日、荻窪に戻ると、太宰がフラリと帰ってきた。
何も語らない。首筋に熊の月の輪のように、縄目の跡が見えていた。「銭湯にでもゆかないか?」「うん」と太宰は肯いている。二人で直ぐ裏の銭湯に出掛けて行った。(檀一雄「小説 太宰治」)
短編小説集『晩年』の原稿は、作者(檀一雄)の手元にあった。
おそらく太宰は自殺を選ぶだろう。だから、何としても、「晩年」を今の中に上梓しておきたいと思った。大きい封筒に入れられた儘、「晩年」の原稿は、早くから私が預かっていたからである。(檀一雄「小説 太宰治」)
作者は、砂小屋書房に関係していた浅見淵に懇願して、『晩年』の出版準備を進めた(「浅見さん。きっと太宰は、やりますよ。今の中に出して下さいね」)。
二・二六事件の株価の変動など、砂小屋書房も経営に苦労していた時期だったが、1936年(昭和11年)6月、太宰治の第一創作集『晩年』は無事、砂小屋書房から刊行される。
この年、太宰は27歳だった。
1936年(昭和11年)12月、作者(檀一雄)は、太宰夫人(初代)の依頼で、熱海に滞在中の太宰のもとへお金を届ける。
太宰は、海の見える部屋を仕事場にしていた(「しかし、何も書かれている様子はない」)。
「ここはね、橘外男がよく来るのだそうだ。叶わぬ。日に三十枚書き飛ばすんだそうだから、驚いたよ。何をそんなに書くことがあるのかね、え」(檀一雄「小説 太宰治」)
お金を受け取ると、太宰は、檀や小料理屋の主人を引き連れて、高級料理屋で豪遊する。
さらに、遊女の家まで出かけて、馴染みの女と遊ぶ(「洗えよ君。処女にも黴菌はついてるからね」)。
届けた金は、あっという間になくなり、太宰は、金策のため、菊池寛のところへ出かけていった(「明日、いや、あさっては帰ってくる。君、ここで待っていてくれないか?」)。
もちろん、何日待っても、太宰は戻ってこない。
借金の人質となった作者は、債権者(小料理屋の主人・目玉の松)を連れて、清水町に井伏鱒二の自宅を訪ねた。
太宰が井伏さんと将棋を指しているのを見て、作者(檀一雄)は「何だ、君。あんまりじゃないか」と激怒する。
「どうしたんだい? 檀君、怒鳴りこんできたりして」と驚く井伏さんに説明すると、とりあえず、井伏さんが、その場を取りなしてくれた(「とにかく、明日は出来るだけの事をして、檀君と熱海にゆくから、ひと先ず引き揚げてくれないか」)。
やや、平静を取り戻した後だったろう。丁度井伏さんが立たれた留守を見て、太宰は私に低く言った。「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」(檀一雄「小説 太宰治」)
「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」という太宰の言葉は、本作『小説 太宰治』で最も有名な名言として知られている。
私は後日、「走れメロス」という太宰の傑れた作品を読んで、おそらく私達の熱海行が、少なくともその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた。(檀一雄「小説 太宰治」)
ちょっとした「走れメロス」誕生秘話、といったところかもしれない。
このあたりの詳細は、井伏鱒二『太宰治』で読むこともできる。
「走れメロス」を鑑賞するときの、ひとつの参考になるのではないだろうか。
熱海事件の直後、檀一雄が淋病になる。
太宰に報告すると、彼は「うむ。いいもんだろう?」と言った。
「ああ、いいもんだ。毎日、自分の中に戦いがあるというのは、こいつは素晴らしいことだ」「そいつはいい。出かしたね。檀君。サッと扇を開いて、あっぱれと云うところだ」(檀一雄「小説 太宰治」)
女郎屋通いの友だけあって、相変わらず下ネタが多い。
1937年(昭和12年)3月、太宰夫人(初代)の不倫が発覚した。
「初代がね」しばらく悶絶でもするふうの苦痛に耐える表情で「姦通したんだ」私は愕然とした。(檀一雄「小説 太宰治」)
相手は、初代の親類にあたる男(柿野要一郎)だった(太宰の姉の婚家先にあたる従弟)。
「昨日なんだ。初代がね、申し上げたい事があります。と、云うから、何だ?と云うと、赦してね、と云うんだ。愛し合っている人が出来たから、結婚させてくれないか、と云うんだ。君だと思ってね。君なら俺も救われた」(檀一雄「小説 太宰治」)
この後、太宰と初代は、水上温泉でカルモチン自殺を計るが、未遂に終わった。
作者(檀一雄)は、自身の淋病の治療に追われて、「水上事件」のことは何も知らなかったらしい。
「二十九。檀君。この二十九という年を、少しは人の身にもなって考えてみろよ。ぞくぞく身うちがふるえるねえ。ひどいもんだ。二十九。ワッ、二十九。こいつは、ひでえ」(檀一雄「小説 太宰治」)
作品集『花筐』が完成して、出版記念会の相談をしている折り、作者(檀一雄)が召集で出征した。
1937年(昭和12年)7月のことである。
「息子の戦死をきき、裏の井戸端に出てシャッシャッと米を磨ぐおふくろ。そんな気持だ」太宰は低くそう云った。(檀一雄「小説 太宰治」)
戦後、二人の仲は、昔のようには戻らなかった。
ベストセラー作家となった太宰は、昔の仲間との付き合いを、あまり喜ばなくなっていたらしい。
だから、檀一雄と太宰治との交友は、太宰が最初の結婚をしていた頃に盛んだった、ということになる。
二人の激しい女郎遊びが、初代夫人を孤独に陥れ、不倫の道に誘い込んだと考えられないこともない。
しかし、いずれにしても、檀一雄は、太宰がいつか自殺するだろうことを、早い時期から確信していた。
だからこそ、彼は、『晩年』の出版を急いだのだ。
太宰治という若き天才作家の遺書とも言える作品集の出版を。
書名:小説 太宰治
著者:檀一雄
発行:2019/06/18
出版社:小学館(P+D BOOKS)