文学鑑賞

永井龍男「東京の横丁」~「私の履歴書」を含む老いと追憶の随筆集

永井龍男「東京の横丁」あらすじと感想と考察

永井龍男「東京の横丁」読了。

本作「東京の横丁」は、1991年(平成3年)1月に刊行された随筆集である。

著者は、1990年(平成2年)10月、86歳で他界。

明治の東京情緒と貧しい少年時代

「あとがきに代えて 父のこと」を長女・友野朝子さんが書いている。

「ここに収録されている「東京の横丁」は「私の履歴書」として、六年前『日本経済新聞』に連載されたもの」とあるが、加筆修正に相当の時間を要したらしい。

原稿は、著者の死後に、納戸の洋服箱の中から見つかったという。

母の話によると、父は入院の二日程前に、「俺は二、三日うちに死ぬ気がする。晩飯の支度なんか放っておけ。淋しいからお前もここに坐って一緒に話でもしよう」と台所に立とうとする母を引き留めたという。(友野朝子「あとがきに代えて 父のこと」)

この部分を読んだだけで、この本を買って良かったという満足感がある。

本書には、日本経済新聞連載「私の履歴書」を加筆修正した「東京の横丁」はじめ、発表済みの短文をまとめた「四季雑記」、懐かしい人々を回想した「追憶の人」のほか、短篇小説「冬の梢」が収録されている。

もちろん、主題は「私の履歴書」改め「東京の横丁」だろう。

人数は共におよそ十人前後か、孤児院の男児も女児も着古した普段着のまま、十歳位を頭にゾロゾロと横丁の奥に集り、まぜ先頭がドラムを打ち鳴らし、孤児院の団歌を合唱した。(永井龍男「東京の横丁」)

「東京の横丁」は、幼少期の記憶から作家として独立するまでを綴った回想記で、とりわけ、明治時代の幼少期が詳しく描かれている。

もちろん、特別のドラマを織り込んでいるわけでもないだろうが、まるで一篇の長篇小説を読むような思いで読み通してしまった。

一家の暮らす横丁には、八百屋や魚屋をはじめ、多くの物売りが出入りをした。

甘酒屋、熊の肝売り、下駄の歯入れ、鋳かけ屋、桶のたが屋に続いて、孤児院や廃兵院の行商隊が登場すると、鮮やかな明治情緒が浮かび上がってくる。

著者には、幼少期を回想した代表作『石版東京図絵』があるが、本作「東京の横丁」は、『石版東京図絵』のスピンオフとして読むことができる。

母は続けて云った。要約すると、父がいろいろ世話になっていた人があって、そこの中元に組み合わせ文房具は好適だから、母に預けよ、お前には代りに好きな物を買ってやると云うのであった。(永井龍男「東京の横丁」)

病弱の父の許で暮らす一家の生活は貧しくて、この貧しさが、本作「東京の横丁」でも、一つの主題となっている。

明治時代の東京情緒を背景として描かれる貧しい少年時代。

「貧しい暮しばかり記してきたが、この時の記憶は、思い出すごとに、いまもひそかに赤面とも屈辱感とも言い得ぬ、心の波立がよみがえる」とあるのは、少年時代の記憶が、いつでも懐かしいだけのものとは限らないということだろう。

菊池寛や小林秀雄、井伏鱒二との出会い

処女作「活版屋の話」あたりから、いよいよ「私の履歴書」らしくなってくる。

「今度こそ一切技巧を捨て、素直に、出来るだけ素直に書こう」と心構えを定めてから「黒い御飯」を書出した。当時の日記を見ると、チェホフのように素直に書いてみようという記述がある。(永井龍男「東京の横丁」)

「一枚一枚祈りに似た気持で書いた」という当時の日記の文章が、貧しい少年の文学に対する思いを象徴していたのかもしれない。

本格的に小説を書き始めると、文学を志す仲間たちが集まってくる。

小林さんの紹介で、慶応在学中の石丸重治、木村庄三郎、波多郁太郎の諸君を同人とする雑誌「青銅時代」に参加したのはその夏であったが、他の同人諸君とそりが合わず、十二月新たに「山繭」を創刊、前記の人々に河上徹太郎、富永太郎氏らを加えて新発足することになった。(永井龍男「東京の横丁」)

菊池寛にいくつかの短編を認められた著者は、小林秀雄と出会い、文学青年の集団に加わっていくことになる。

大正時代最後の年のことで、あるいは、この頃が、文学青年として最も楽しい時期だったのではないだろうか。

菊池寛の文藝春秋に入社したときは、初対面の横光利一が口添えしてくれた。

「人はあまっている」と追い返された著者を見て、たまたま文藝春秋へ来ていた横光利一が、「僕と、もう一度、菊池氏の室へ行ってみませんか」と、気軽に声をかけてくれたのだ。

菊池寛は「僕のポケット・マネーから、月々三十円やる」と、そっけなく呟いたそうである。

昭和三年私は「創作月刊」の編集に転じた。一切無稿料の文学誌で、「新人のための発表誌」という建前だが、なかなか編集は辛かった。その中で執筆に応じてくれたのが縁で、井伏鱒二氏を知ったのは幸運であった。(永井龍男「東京の横丁」)

このとき、井伏さんもまた、30歳の文学青年で、『創作月刊』には、1929年(昭和4年)に「朽助のいる谷間」を発表している。

代表作「山椒魚」や「屋根の上のサワン」の発表も、また、1929年(昭和4年)だったから、ちょうど井伏鱒二という作家が、本格的に認められる時期だったのだろう。

仲間たちを見送る作家の晩年

後半の随筆は、様々な媒体に発表したものだが、いずれも鎌倉の四季を感じさせる、潤いある作品となっている。

鎌倉へ引越して来ないかと、直接私を誘ってくれたのは、友人の今日出海であった。もう五十年前のことだった。今君はなにげなく云ったに違いないが、これは名案かも知れぬと思うようになった。(永井龍男「螢」)

最晩年の文章だから、老いと回想に触れるものが多い。

運命を受け入れる寛ぎがあるのは、充実した人生を過ごしてきた人の老後だからだろう。

こういう文章は、年を取ってから読むものではない。

人は、いかに年を取るべきかということのヒントが、そこにはある。

急に駆け足になったり、そうかと思えば道草をしたり、近道を選んだつもりが行き止まりで、もと来た道へ戻らなければならなかったり、振返って見れば、私の人生はそんなことの繰返しであった。(永井龍男「小さな栖処」)

晩年になっても「もうこの辺でよかろうということは、われらの日々にはあり得ない」と、たゆまず歩み続けた。

親友・今日出海の追悼文「今日出海氏を偲ぶ」は寂しい。

入院中に「俺がいない俺の御通夜なんてものは、何か考えてみるととても不思議だなあ」と言ったとか、好きなアイスクリームを勧められて「そうだよ俺も生きてるうちは好きだったんだけどね」と呟いたとか、最期を迎えつつある人間の覚悟が感じられる。

それは、親友を見送る永井龍男自身の覚悟でもあったかもしれない。

大岡昇平に会ったのは、小林秀雄の三回忌の法要が最後だった。

夫人の肩を借りながら、とぼとぼと石畳を歩く大岡は、「おい、お前さん、脚が確りしているんだねえ、俺はこれだよ」と微笑する。

これが、彼に逢った最後である。連載も書いているし、この頃は元気なのだとばかり信じていた。みんな行ってしまった。要するに、そういうことであった。(永井龍男「鉱泉宿──大岡昇平人と文学」)

小林秀雄、林房雄、河上徹太郎、吉田健一など、戦後一緒に『新夕刊』を始めた仲間たちも、今はもういない。

そして、それが、人間の世というものだった。

人生を描き続けてきた人の文章だから、最後まで、人生が滲み出ている。

読み応えのある随筆集だと思う。

書名:東京の横丁
著者:永井龍男
発行:1991/01/30
出版社:講談社

ABOUT ME
みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。