庄野潤三「桃李」読了。
本作「桃李」は、1954年(昭和29年)6月『文学界』に発表された短篇小説である。
この年、著者は33歳だった。
作品集としては、1955年(昭和30年)2月にみすず書房から刊行された『プールサイド小景』に収録されている。
第31回(昭和29年/1954年上期)芥川賞候補作。
子どもたちの心の痛みは、父親の心の痛み
本作「桃李」は、庄野潤三の上京物語である。
物語の語り手である<私>は、会社の東京支店への転勤のため、妻と二人の子どもたちを連れて、大阪から東京へとやってくる。
駅のホームでは、多くの仲間たちが出迎えてくれたが、その夜の宿屋で、二歳になったばかりの<文也>が「かえよーかえよー」と言って泣き出し、夫婦は激しく困惑する。
障子を開け放した窓の外には、遠くに赤いネオンの見える夜の街があった。雨は、私たちが来た時よりもずっと烈しい降りになっていた。私は今にして重大な間違いを冒したのではあるまいかと云う気持になり、幼い子の哀切をきわめてなく声を黙って聞いているより他なかった。(庄野潤三「桃李」)
この物語で印象的なのは、<私>(つまり作者である庄野潤三)の心の痛みである。
どうにか文也を寝かしつけて、翌日から一家は「森と空にそびえ立つ木立のむれとなだらかな起伏のある畑に囲まれた武蔵野」に建つ新しい我が家で暮らし始めるが、子どもたちは新しい土地での生活に馴染むことができない。
幼稚園まで長女の<明子>を迎えに行った妻<しずこ>は、教室から泣いて出てくる明子を見つける。
クリスマスのための工作が、うまくできなかっただけのことだったが、この出来事は、<私>の心にも痛みを与える。
私はめずらしい草花か何かを見るように、その未完成の色紙細工を眺めていた。すると、心と手とが一致しない口惜しさで泣きだしてしまった明子の悲しみが、私の心に移って来た。(庄野潤三「桃李」)
子どもたちの、心の痛みは、そのまま父親である<私>の痛みだった。
作家・庄野潤三の決意表明の物語
いくつかの断片的なエピソードで構成されたこの短編小説で、最も長いエピソードが、明子がL大学附属小学校を受験する話である。
最初は落ちてもともとと考えていたはずが、妻が「何とかして入れてやりたい」というのを聞いているうちに、<私>も「これは負けては入られないぞ」という気持ちになってしまう。
<私>は、友人の伝手を使って、明子のために様々な努力をするが、結局、最後の籤引きの段階で、明子は不合格になってしまう。
私は支店長室を出て、自分の机のところまで帰って来て、椅子に腰を下した。すると、突然強い失意の感情が襲いかかって来て、私の眼からもう少しで泪が溢れそうになった。それはどうにも体のかわしようがないものであった。私は、それが、私の人生に今度新しく加わった悲しみであることを知った。(庄野潤三「桃李」)
親族に囲まれていた大阪を離れて、見知らぬ土地・東京で、一家四人だけの生活を始めたとき、<私>は自分が一家の責任者たる父親であることを激しく意識する。
自分のみならず、子どもたちの悲しみまで、これからは背負っていかなければならない。
孤独な<私>を励ましてくれたのは、死んだ父親だった。
或る晩、私は死んだ父の夢を見た。夢の中では、私は大阪の家の玄関のところにいて、靴を穿こうとしていた。私は何処か遠方へ出かけるところで、その時の気持ではひょっとするとその儘ずっと家へ戻らないかも知れない立場にあった。父は私のうしろに立っていたのだが、私に向って、「よくなめした靴を穿いて行け」と云った。(庄野潤三「桃李」)
「よくなめした靴を穿いて行け」という言葉は、私に対する父親からのメッセージだろう。
「よくなめした靴」とは、自分の経験、すなわち、父親からの教えのことを意味しているように思われる。
「何処か遠方へ出かけるところ」は、未知の東京で一家四人きりの生活を始める<私>の暮らしを暗示しているが、東京で新しい生活を始めるからといって、何もかも新しくする必要はない。
子供のころに父から教わったことを、今度は、自分で実践していけばいいのだ。
本作では、もうひとつ、父が登場する場面があるが、死んだ父の激励を受けて、<私>は家族とともに、東京で生きていくことを決意する。
本作「桃李」は、故郷の大阪を離れて東京で暮らすことになった庄野さんの、決意表明の物語である。
同時に、庄野さんは、家族を背負って生きていくということを、大阪の親族の許を離れて、初めて強く意識した。
だから、この短編小説は、庄野さんの父親としての決意だと受け止めることもできるだろう。
やがて、名作『ザボンの花』へと繋がっていくことを予感させる、良い物語だと思った。
作品名:桃李
著者:庄野潤三
書名:プールサイド小景
発行:1950/02/25
出版社:みすず書房