車谷弘『わが俳句交遊記』読了。
本作『わが俳句交遊記』は、1976年(昭和51年)10月に角川書店から刊行された随筆集である。
この年、著者は70歳だった。
趣味人たちが生きていた時代
本作『わが俳句交遊記』は、趣味の俳句を軸として、文人との交遊を綴った回想録である。
珍しい俳句が、たくさんある(ここがポイント)。
年の湯の湯気に消えゆく月日かな 吉屋信子
昭和の時代の文士たちは、本職である小説とは別に、趣味として俳句を嗜む人が多かった。
「句会」を通して築かれる文人同士の交流も、少なくなかったらしい。
文芸春秋社で編集の仕事をしていた著者(車谷弘)も俳句を趣味としていたから、仕事以外にも句会の席で、文人たちと交わる機会が多かった。
俳句は、必ずしもプロの俳人でなければ、おもしろい作品を作れないというわけではない。
むしろ、素人だからこその発見や冒険が、俳句という世界にはある。
著者は、俳句を通して交遊のあった人々を、懐かしく思い出していた。
龍太さんの『忘音』が出たとき、永井龍男さんが、「あれは何と読むのだろう、『わすれね』とよむのだろうか」といった。「そうかもしれないな。そうすると、それは釣竿の銘かな」と井伏さんがいった。(車谷弘「わが俳句交遊記」)
井伏鱒二は、飯田龍太とは釣り友だちでもあったから、「釣竿の銘」という発想になったものだろう。
私の部屋に、文壇俳句会の寄せ書き屏風があるが、ある日、山本健吉さんがそれを見て、「この句はいいな」と手帳にメモした。それは尾崎一雄さんの句で、「物乞の手触れてゆきし寒椿」というのだった。(車谷弘「わが俳句交遊記」)
俳句が仲立ちする交遊記だから、思わぬ人たちの名前が随所で登場する。
幸田露伴に「武蔵野は小さかりける初日哉」という句がある。昭和二十一年、伊東の宿でよまれたもので、時に露伴先生は数え年の八十歳であった。(車谷弘「わが俳句交遊記」)
幸田露伴・文の父子が市川の菅野へ引っ越していくのは、それから間もなくのことである。
横光利一は「十日会」という句会を持つほど、俳句が好きな小説家だった。
故郷は、三重県伊賀市の柘植である。
横光さんは、遂に生前、一度も柘植へ帰らなかった。(略)いま、柘植の町には「蟻台上に飢えて月高し」という、横光利一の文学碑が建っているそうだ。(車谷弘「わが俳句交遊記」)
松尾芭蕉の家系に連なることを、横光利一は密かな誇りとしていたという。
久保田万太郎の代表句が生まれたのも句会の席だった。
一子さんが亡くなって、十日目ぐらいに、忘年句会があった。(略)痛々しいほどのやつれぶりだった。その夜は、「湯豆腐」という席題が出て、先生の句は、「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」というのだった。(車谷弘「わが俳句交遊記」)
万太郎俳句には、楽しい句会の席がよく似合う。
やがて、永井龍男さんの披講がはじまって、最初に読みあげたのが「門下にも門下ありける日永かな」というのだった。「万太郎……」間髪を入れず、打てばひびくように、久保田先生の声があった。(車谷弘「わが俳句交遊記」)
瀬戸内晴美が初めて文壇句会に参加したとき、「瀬戸内さんは、俳句は、木山捷平さんの門下だそうです」という著者(車谷弘)の冗談で座は盛り上がり、久保田万太郎が、この句を披露したのだという。
もっとも、この日の句会に木山捷平は欠席だった。
書初めや嵯峨天皇を前におく 木山捷平
久保田万太郎の詠んだ句を見て、木山捷平は「うん、なかなかいい句じゃね」と軽くうなずいてみせたらしい。
時々、古い俳句の話が入っていて、ハッとすることがある。
時間があったので、私はついでに、石山寺へまわってみた。(略)それは芭蕉が、この寺を詣でたとき、紫式部への挨拶としてよんだ句である。「あけぼのはまだむらさきにほととぎす」(車谷弘「わが俳句交遊記」)
『狐音句集』は、清水崑の没後に編纂された句集である。
「狐音」とは「崑」をもじった俳号だった。
古本の化けて今川焼愛し 清水狐音
「どこか飄逸な、禅味を帯びているところが彼の風格をしのばせてなつかしい」と、著者は清水崑との思い出を振り返っている。
俳句の交友は、文士以外へも広がっていた。
「女房も同じ氏子や除夜詣」という、先代中村吉右衛門の俳句がある。名優吉右衛門の俳句好きは有名だが、その小唄もすばらしかった。(車谷弘「わが俳句交遊記」)
俳句と小唄には、深いつながりがあったと、著者は言う。
俳号を「鱒児」といった政治家の林譲治が、文壇俳句界でよんだ句に「唄の友句の友であり夏座蒲団」というのがあるが、林さん自身そうであったように、俳句と小唄をたのしむ趣味人は少なくなかった。(車谷弘「わが俳句交遊記」)
当時は、まだ、渋沢秀雄や小絲源太郎といった粋人が活躍している時代だったのだ。
黒塀に秋燈ともりうなぎの字 渋沢秀雄
小唄の粋人が作る俳句らしく、江戸情緒が効いている。
小絲源太郎は、絵を描いた色紙を送ってきた。
それからしばらく経って、小絲さんから小包が届いたので、何だろうと思ってあけてみたら、それはあのときの、三色菫の色紙だった。絵の上に「あけやすやおらんだ坂といふところ」という、御自分の俳句が書き添えてあって、「これは、あなたに差上げます」ということだった。(車谷弘「わが俳句交遊記」)
粋人の俳句ということでは、その後に安藤鶴雄が続く。
数へ日の横町ひとつとりちがへ 安藤鶴雄
久保田万太郎から続く、古き良き芝居の世界が、そこにはある。
珍しいところでは、芥川賞作家・清水基吉の俳句もある。
清水基吉が『雁立』で芥川賞を授賞したのは、終戦が間近い1945年(昭和20年)のことだった。
私はその夜、清水さんにもらった句集『冥府』をとり出して、よみ返してみた。「蝉しぐれきのふのごとく戦後過ぐ」(車谷弘「わが俳句交遊記」)
十一谷義三郎は、『唐人お吉』(1928)で人気を博した小説家である。
秋風や酒に浮かるゝ仏あり 十一谷義三郎
新橋の芸者衆に俳句指導をしていたのは、高浜虚子だった。
分菊本より花三升さま桜餅 高浜虚子
「分菊本(わけきくもと)」は新橋の芸者「小時(ことき)」の、「花三升(はなみます)」は「実花」の屋号である。
今東光・日出海とは「いとこ」だった竹田小時は、病気で亡くなる前に、辞世の句を実花に送った。
弔客に火桶おこたり給ふなよ 竹田小時
小時の俳句は『絲竹集』(1957)という句集に残されている。
複雑な身の上を持つ下田実花は、俳人・山口誓子の妹だった。
兄姉とはなれぐらしの門火焚く 下田実花
『実花句帖』(1955)と『手鏡』(1961)は、いずれも下田実花の句集である。
文壇俳句界で隅田川のさかのぼりをしたこともあった。
このときの句会には、久保田万太郎や瀧井孝作、吉屋信子などが参加している。
披講はいつものように、永井龍男さんが、諧謔まじりで、声をはりあげ、句会はにぎやかに進行して「高度三千碧眼の少女団扇を膝におく」という林房雄さんの字あまりの処女作がとび出したりした。(車谷弘「わが俳句交遊記」)
隅田川に浮いている空襲被害者の卒塔婆を、中里恒子が詠んだ。
夕波や西日の中の浮塔婆 中里恒子
しかし、この日の注目は、直前に急きょ参加した正宗白鳥だっただろう。
金魚売の声昔は涼しかりし 正宗白鳥
俳句は、数をたくさん作っているベテランだから良い作品が創れる、というものでもない。
俳句は感性の文学であり、瞬間の閃きに支えられた文学なのだ。
高田保が死んだとき、久米正雄は弔電で俳句を送って寄越した。
あけてみると「ハルノユキヒトゴトナラズキエテユク クメマサオ」とある。(略)気をしずめてよくみると、「春の雪ひとごとならず消えてゆく」久米正雄の弔電だった。(車谷弘「わが俳句交遊記」)
久米正雄がこの世を去ったのは、それから十日も経たないうちだった。
編集者が見た文壇という世界
本作『わが俳句交遊記』は、俳句がとりもつ交遊を綴った回想記だが、俳句抜きの文壇史として読んでも、非常に充実している。
酒飲みの俳人・渡辺水巴は、独酌を愛した。
「私の酒はひとりの酒だ。酌をするのも、されるのもきらいでね。のみたいときに、自分でつぐ。いくら美人の姐さんでも、のみたくないときにつがれるのは困るんだ」(車谷弘「わが俳句交遊記」)
俳句にも酒にも厳しい渡辺水巴の素顔が、そこにはある。
同じそば好きでも、渡辺水巴は潔癖派で、「天ぷらそば、わたしに云わせれば、あんなものは吸いものだ」と、ざるそばの一点張りだった。(車谷弘「わが俳句交遊記」)
ライフ・スタイルに強いこだわりを持っていた明治人の心意気が感じられる。
井伏鱒二のエッセイに誤りがあると指摘したのは、釣り仲間である飯田龍太だった。
「父の句を『西日さす天皇の日に葡萄売る』とありましたが、あれは間違いで、正しくは『西日さす天皇の碑に葡萄熟る』です。『日』ではなく『碑』、『売る』ではなく『熟る』が正しいのです」(車谷弘「わが俳句交遊記」)
これは、飯田蛇笏が境川村で『雲母』の大会を開催したときの話である。
下曽我にある尾崎一雄の自宅を訪ねたこともあった。
鬱蒼とした森を背景に、下曽我神社の鳥居がみえ、その参道のほとりに、ひっそりと、一雄さんの家があった。尾崎一雄家は代々下曽我神社の宮司の家柄で、そのあたり一帯に、広大な土地をもっていたらしい。(車谷弘「わが俳句交遊記」)
「下曾我神社」とあるのは「宗我神社」のことで、境内には現在も、尾崎一雄の文学碑がある。
幸田露伴が伊東の宿にあった大晦日、佐佐木茂索がのし餅を届けたことがあった。
そのとき、佐佐木さんは、露伴先生のそば好きを知っていたので、「よろしかったら、年越しそばも届けましょうか」と云ったそうだ。すると、露伴先生は、佐佐木さんの好意に感謝しつつ、「年越しそば、いや、あれは町人の食べるものです」と辞退したそうだ。(車谷弘「わが俳句交遊記」)
昔の粋人というのは、無暗に流行に乗ったりしなかったのだろう。
著者(車谷弘)は下戸だったから、酒の付き合いは苦手としていたらしい。
内田百閒からも「君は仕事のときしかやってこない。たまには閑談に来給え」と言われたことがあった。
それでも私は、用もないのに、先生をお訪ねするのは気がひけて、とうとう晩年の十年間を御無沙汰してしまう結果になった。これはひとつは、私は酒が飲めないからで、「下戸をもてなすのはむずかしいなア」と先生の嘆じた言葉が、痛いほど耳に残っているからである。(車谷弘「わが俳句交遊記」)
むしろ、戦前戦後という時代に、下戸の編集者が、文壇を堂々と生きてきたことに驚かされるが。
中戸川富枝句集『春日』を絶賛したのは、坂口安吾だった。
『春日』の著者中戸川富枝というのは、作家中戸川吉二の夫人であり、昭和十四年四月二十八日に、三十五歳の若さでこの世を去った。ながい病床生活にあって、昭和十二年の春頃から句作をはじめ、その期間はわずか二年にすぎなかったそうだが、句集『春日』にはその作品七十句がおさめられている。(車谷弘「わが俳句交遊記」)
夫の中戸川吉二は北海道釧路市出身の作家。
中戸川富枝の死後に制作された限定200部の遺稿句集『春日』は、現在も稀覯本となっている。
蠅の子の生まるゝ今日まで生きのびたり 中戸川富枝
様々な句会に文人たちが集まっていた。
文藝春秋俳句会がうまれたのは、昭和十四年の、たしか五月で、その頃首相官邸の崖下にあった文藝春秋クラブで、第一回がひらかれた。(略)この日のことをはっきりおぼえているのは、「更衣」という席題が出て、私の句が、久米さんの選にはいったからである。「『わぎもこの眼帯白し更衣』か。うん、なかなかやるねと久米さんがほめてくれた。(車谷弘「わが俳句交遊記」)
考えてみると、実にたくさんの文人が登場して、たくさんの俳句が紹介されているのに、著者(車谷弘)自身の作品は、ほとんど出てこない。
編集者は、あくまで陰に生きる存在ということだったのだろうか。
こういう本を読んでいると、昔の小説を俄然と読みたくなってしまう。
十一谷義三郎や中戸川吉二はもちろん、正宗白鳥や瀧井孝作、あるいは横光利一でさえも、既に現在性を失いつつあると言っていい。
それでも、ひとつの時代を生きた小説には、その時代にしかない空気感を秘めているものだ。
小説ばかりではなく、句集もまたしかりである。
句集は小説以上に残ることが難しく、それが俳人の作品ではなくて、趣味人の作品集であったりすると、なおさらのことだろう。
本書には『吉屋信子句集』をはじめ、『絲竹集』『実花句帖』『春日』など、貴重な句集がたくさん登場している。
俳句というのは、忘れられてしまえばそれまでで、歴史に残るためには読み継がれていくしか術はない。
歳時記には収録されることがないような目立たぬ作品であっても、俳句が一つの文学であり、作者の経歴を物語る証であることに違いはない。
俳句を覚えているということは、つまり、その作者を覚えているということだ。
50年前に出版された本書に登場する趣味人たちは、既にこの世の人ではなかった。
こうした随筆集を縁に、現代を生きる我々は、古き良き時代にもっと触れるべきなのではないだろうか。
書名:わが俳句交遊記
著者:車谷弘
発行:1976/10/15
出版社:角川書店

