レイモンド・カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること」読了。
本作「愛について語るときに我々の語ること」は、1981年(昭和56年)冬春『アンタイオス(Antaeus)』に発表された短篇小説である。
この年、著者は43歳だった。
原題は「What We Talk About When We Talk About Love」。
作品集としては、1981年(昭和56年)4月にクノップフ社から刊行された『愛について語るときに我々の語ること』に収録されている。
日本では、村上春樹の翻訳で1988年(昭和63年)11月『ミステリマガジン』に発表された。
平和な夫婦生活に問いかける深い恋愛小説
物語の語り手<僕(ニック)>は、妻<ローラ>と一緒に、友人<メル>、その妻<テリ>とお酒を飲んでいる。
会話の中心は、ほとんどメルだった。
メルは「愛について」熱心に語り始める。
「本当の愛がどういうものか教えよう」とメルが言った。「というかその好例を示そう。そして君たちが自分で結論を出せばいい」(R・カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること」訳・村上春樹)
ニック38歳、ローラ35歳。
二人は結婚して一年半が経とうとしている。
そして、そこにいる4人全員が再婚だった。
ニックとローラは新婚さながらに互いの愛を確かめ合うが、メルの話は二人の未来に不気味な暗示を投げかける。
自分の胸がどきどき音を立てて鳴るのが聞こえた。僕はひとりひとりの心臓の鼓動を聞き取ることができた。そこに腰を下ろしている人々の体の発する物音ひとつひとつを僕は聞き取ることができた。部屋の中がすっかり暗くなったが、それでも誰一人として動こうとはしなかった。(R・カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること」訳・村上春樹)
ニックとローラの甘ったるいムードは消え去り、薄闇の中で、誰もがぼんやりと考え込んでいる。
そこに、愛の難しさがある。
あるいは、愛という存在の不思議さが。
この物語は、平和な夫婦生活に問いかけるような、深い恋愛小説である。
その瞬間に愛することの大切さ
一番印象的だったのは、「もし僕らのどちらかの身に明日何かが起こったら──」という、メルの不吉な仮定である。
「もし僕らのどちらかの身に明日何かが起こったら、残された方はしばらくは相手の死を哀しむだろう、そりゃね、でもそのうちにまた外に出てきっと別の誰かを愛するだろうと思うんだ。こんなのもみんな、僕らが今話しているこんな愛もみんな、ただの思い出になってしまうだろう。あるいは思い出にもならんかもしれない。僕の言ってることは間違ってるかい?」(R・カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること」訳・村上春樹)
もちろん、誰もメルの意見を否定することはできない。
なぜなら、彼らは全員「別の誰かと結婚していた(別の誰かを愛していた)」という過去を持っているからだ。
それは、人生というもののはかなさでもある。
午後の太陽を浴びて御機嫌だった彼らが、陽光がこぼれ落ちるように去ってしまった今では、悲しいくらいに寡黙だ。
カーヴァーの小説に説明はないから、読者は、ここから愛についての解釈を求められる。
まるで、そこにいる四人とテーブルをともにしているような気持ちになって(そこがいいんだけど)。
僕が考えるに、この小説は、一見のところ刹那的に見えるけれど、裏を返すと、それは、その瞬間に愛することの大切さを意味しているのではないだろうか。
いつかは別の誰かを愛してしまうかもしれないからこそ、今の愛を大切にしたい。
中高年になれば、若かったときに比べて愛の重さは増すし、残されている時間も少ない。
それが「大人の愛」というものなのではないだろうか。
ふと気がつくと、部屋に射し込む光はいつのまにか変化して、すっかり弱くなっていた。でも窓の外の葉はまだちらちらと揺らめいていた。僕はそれが窓枠やフォーマイカ・パネルのカウンターに模様を描くのをじっと見ていた。もちろんひとつひとつ模様は異なっていた。(R・カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること」訳・村上春樹)
まるで「愛」をメタファーで物語るような風景描写もいい。
「もちろんひとつひとつ模様は異なっていた」とあるのは、もちろん、多様な人生であり、様々な恋愛模様のことであるのだろう。
こういう小説を読むと、すごく良い気分になることができる。
もしも、自分が彼らと同じテーブルでジントニックを飲んでいたとしたら──
これは大人の小説だと思った。
作品名:愛について語るときに我々の語ること
著者:レイモンド・カーヴァー
訳者:村上春樹
書名:ミステリマガジン
発行:1988/11
出版社:早川書房