松下たえ子『ヴィルヘルム・ミュラー読本──「冬の旅」だけの詩人ではなかった──』読了。
本作『ヴィルヘルム・ミュラー読本──「冬の旅」だけの詩人ではなかった──』は、2021年(令和3年)5月に未知谷から刊行された評論集である。
この年、著者は79歳だった。
詩人であり、文芸評論家であり、古典文学研究家
ヴィルヘルム・ミュラーは、決して著名な詩人ではななかった。
彼は、シューベルトの歌曲『冬の旅』と『美しき水車小屋の娘』によって「音楽史」に名を残したドイツの詩人だった。
むしろ、ドイツ文学の世界で、ミュラーの名前を目にすることの方が難しいかもしれない。
ヴィルヘルム・ミュラー(一七九四~一八二七)は、一八二〇年代ドイツ文学界では注目を浴びた詩人であり文筆家であった。しかし彼の作家活動は三十三歳になる誕生日直前の急逝までの一〇年余でしかない。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
同時代を生きたドイツ詩人として、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテやクリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネがいる。
ミュラーが死んだ1827年、ゲーテは78歳、ハイネは30歳で、当のミュラーは誕生日を目前に控えて32歳で亡くなった。
ハイネは、敬愛する先輩(ミュラー)から影響を受けている。
一八二六年六月七日、ハインリヒ・ハイネ(一七九七~一八五六)はミュラーに宛てた手紙で「ゲーテは別格ですが、あなたほど私の愛する歌謡詩人は他にはいません」と最大級の賛辞を送り、自分の詩もミュラーの影響のもとに生まれたものであると告白している。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
偉大なロマン派詩人(ハイネ)は、自分たちの文学が芸術史に残るべきだと確信していたらしい。
私は自惚れの強い男なので、私の名前は、もう私たちがこの世に存在しなくなった後も、貴方の名前と共に呼ばれるものと信じています。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
しかし、ハイネの名前が、ミュラーの名前と共に呼ばれることはなかった。
一八二六年六月七日ハンブルクで書かれたハイネの予言は当たらなかった。ハイネは生き続け、ミュラーは忘却の詩人となった。しかし全く忘れ去られたというわけではなく、記憶に留めようとする試みが脈々と続いてはいた。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
本作『ヴィルヘルム・ミュラー読本』には、「忘却の詩人」ヴィルヘルム・ミュラーの評伝と評論のほかに、「小詩集」が収録されている。
ミュラーの作品集が出版されていない日本において、この「ヴィルヘルム・ミュラー 小詩集」は、ミュラーの作品をまとめて読むことのできる、貴重な資料である。
ミュラーが初めて発表した詩集は、1816年1月、従軍中に知り合った仲間たちとの共著で出版した『同盟の華』(マウラー ベルリン)だった。
ミュラーの作品には、戦闘を鼓舞する詩、戦争の体験を綴る詩が最初に置かれているが、大半は副題にロマンツェと題された恋愛詩である。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
単著としては、1820年11月に刊行された『旅する角笛吹きの七七篇遺稿詩集』(アッカーマン デッサウ)が最初の詩集となっている。
初期の詩を修めた『旅する角笛吹きの七七篇遺稿詩集』は婚約とほぼ同時の出版だった。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
この頃、ミュラーは、王立図書館の司書として働きながら、「出版業界の帝王」フリードリヒ・アーノルド・ブロックハウスの下で、ブロックハウス社が出版する雑誌へ評論や作品を発表するほか、百科事典の制作にも携わっていた。
安定した家庭を得たこの時期が、ミュラーにとって作家としての最盛期でもあった。
この詩集には『美しき水車小屋の娘』、「ヨハネスとエステル」、「旅の歌」、「田園の歌」、「一二カ月」、「図案集」というタイトルのもとに集められた詩が収められた。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
処女詩集『旅する角笛吹きの七七篇遺稿詩集』には、シューベルトも注目した『美しき水車小屋の娘』が収録されている。
そういうことだったのか
さらさら流れる俺の友
お前の歌 お前の響きは
そういうことだったのか
目指すは水車屋の娘さん
そういう意味なんだ
そうだろ あたりだろ
目指すは水車屋の娘さん
(ヴィルヘルム・ミュラー「小川への謝辞」松下たえ子・訳)
しかし、本書『ヴィルヘルム・ミュラー読本』では、その他の作品にも注目したい。
マリア とあなたに挨拶したい
ぼくの心はいつもあなたをそう呼んでいた
マリアだ さらさらと波の音が言う
彼女の名前はマリアでなくてはならない
(ヴィルヘルム・ミュラー「マリア」松下たえ子・訳)
『ヨハネスとエステル』の中の「マリア」は、ミュラーの死後に発表された自伝的小説『デボラ』(1828)にも登場する作品だ。
その後、1824年に『旅する角笛吹きの遺稿詩集 第二巻』が刊行されている。
そして『冬の旅』を書き始めたのもこの年で、二二年、二三年には雑誌二誌にそれぞれ一二篇と一〇篇が発表され、それらは二四年に『旅する角笛吹きの遺稿詩集 第二巻』にひとつにまとめて収められ、出版された。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
なにしろ、33歳になる前に早逝しているので、遺された作品集も少ない(詩集は2冊のみ)。
大学で古典文献学を専攻したミュラーは、詩集の他に、計六巻まで続いた『ギリシア人の歌』も出版している。
七人の息子に我が乳房から父を飲ませた
七人の息子に聖なる剣を手渡した
我らの信仰と自由と名誉と正義のための剣を
万歳 息子たちはもう誰も下僕ではない
喜び勇んで戦に臨んだのだ
(ヴィルヘルム・ミュラー「マニの女」松下たえ子・訳)
クリストファー・マーロウの『ファウスト博士』(1818)のドイツ語訳や、中高ドイツ語からの現代語訳『中世騎士恋愛詩精選 第一集』(1816)を出版するなど、詩作以外の活動も活発だった。
ミュラーの心の奥にあった将来の理想像は「偉大な詩人」でありかつ「文学の精髄に通じつつも堅苦しくない優雅な文学者」であった。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
ブロックハウスの企画『一七世紀ドイツ詩人文庫』(計10巻)の企画も、ミュラーが中心となって進められた。
古典文学者としての業績はホーマーの『イリアス』と『オデッセイ』の成立過程と関連を探る著作『ホーマー入門』である。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
歴史学者たちからも高い評価を得た『ホーマー入門』(1824)は、特装本が製作されてデッサウ大公に献呈された。
この年、29歳のミュラーは、デッサウ宮廷顧問官に任命されている。
なり振り構わず供される仕事は何でも引き受けはした。しかし、その反面、詩を書いてギリギリ人を支援し、楽しい酒飲の歌で暗に政情批判をし、失望、失意の詩『冬の旅』を書いた。ジャーナリズムや文学界での足場を固めながら、自ら書きたいものを書き続けた。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
『ギリシャ人の歌』(~1826)の出版も続けられ、『現代ギリシャの民謡』(1825)も翻訳出版した。
しかしその間も、詩人であり、かつセンスある文学者でありたいというミュラー積年の願望は消えることなく、かつて修めた古典文学研究にも精力的に取り組んでいた。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
詩人であり、文芸評論家であり、古典文学研究家でもあったヴィルヘルム・ミュラー。
それは、シューベルトの『冬の旅』や『美しき水車小屋の娘』だけからは知ることのできない、マルチな才能を持つ文学者の姿だった。
「冬の旅」の作者と日本との意外な関係
ヴィルヘルム・ミュラーの評伝を読んでいると、意外なところに意外な名前が出てくる。
1821年5月、ミュラーは、六歳年下の花嫁アーデルハイト・バセドゥと結婚した。
「バセドゥ氏病」で有名な医師カール・アドルフ・フォン・バセドゥはアーデルハイトの兄である。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
バセドウ病の発見者(カール・アドルフ・フォン・バセドウ)のWikiには、ヴィルヘルム・ミュラーとの関係は記載されていない。
意外なつながりと言えるだろうか。
日本では、ヴィルヘルム・ミュラー以上に有名だったのが、彼の息子であるフリードリッヒ・マックス・ミュラーである。
マックス・ミュラーはドイツに生まれ、イギリスに帰化したインド学者(サンスクリット文献学者)、東洋学者、比較言語学者、比較宗教学者、仏教学者だった。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
日本では、南条文雄、笠原研寿、高楠順次郎らが、マックス・ミュラーの下で学んだという。
日本のドイツ文学界でも一時期彼の本が読まれた。ただしマックス・ミュラーの専門とした分野の本ではなく、彼の小説である。何と彼は小説も書いているのである。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
文学的な才能は父親譲りだったかもしれない。
マックスの小説は「ドイツ人の愛──あるよそ者の書より」と題された、作者の子供時代の体験に基づく愛についての物語である。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
マックス・ミュラーの父親(ヴィルヘルム・ミュラー)は、マックスが三歳のときに亡くなっているから、彼にとって父親の記憶はかなり淡いものだったに違いない。
「ドイツ人の愛──あるよそ者の書より」は、相良守峯の訳により『独逸人の愛』として日本でも出版されている。
1950年(昭和25年)には『愛は永遠に』と改題されて角川文庫にも入り、1970年代まで読み続けられた。
父ヴィルヘルム・ミュラーの作品が日本で単行本として独自に翻訳出版されることがなかったことからすると皮肉な現象である。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
父(ヴィルヘルム・ミュラー)の遺稿は、息子(マックス・ミュラー)が管理していたが、マックスの生存中は公開されることがなかった。
ちなみに、息子(マックス・ミュラー)の遺稿は、門下生だった東京帝国大学教授(高楠順次郎)を通じて、東京帝国大学に寄贈されている。
かくして大学図書館に収められたマックス・ミュラー文庫であったが、その二二年後、一九二三年九月一日の関東大震災のため、図書館諸共焼失した。岩崎久彌が東洋文庫を創立したのは震災の翌年である。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
日本に渡った「マックス・ミュラー文庫」の中に、父(ヴィルヘルム・ミュラー)の遺稿が紛れこんでいなかったどうかを確認する術は、もはやない。
『冬の旅』の作者(ヴィルヘルム・ミュラー)と日本との意外な関わりは、本書の中でも注目すべき発見だった。
ヴィルヘルム・ミュラーの時代、ドイツ文学界に君臨していたのは、あのゲーテである。
ミュラーが生まれた時ゲーテはすでに四十五歳で、文学界に確固たる地位を築いていた。(略)最初の詩集を出版するとゲーテに送った。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
旅行の際には、実際にゲーテを訪ねることもあった。
最初の訪問は1826年、フランツェンスバートへの湯治の帰りだったが、初めての面談は、あまり楽しいものではなかったらしい。
彼は不愉快だ。自惚れているばかりではなく、眼鏡をかけている。眼鏡は私にはこの上なく我慢ならぬ代物だ。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
ミュラーは、ギリシャ民謡の翻訳の中で、ゲーテを批判したこともあったから、そもそも快く思われていなかったのかもしれない。
二度目の訪問(最後の訪問)は、1827年、ミュラー最後の旅行となったライン河畔への長旅の帰途だった。
ミュラーの死の九日前。疲労困憊したミュラーの印象はよくなかったに違いない。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
そもそも、このライン河畔旅行は、健康に不安のあるミュラーにとって、最初から厳しいものだった。
少年時代からの夢だったライン旅行を、人生最後のタイミングで決行したミュラーは、愛妻(アーデルハイト)とともに楽しんだ(「旅に出る前の何週間も病気だったミュラーはどうやってこの旅に耐えたのだろうか」)。
ライプツィヒに着いた二十三日の夜は「オベロン」を見に行った。二十四日にはブロックハウスやヴェント等との会食があった。最後まで活動的だった。デッサウに戻って五日後、九月三十日夜半に亡くなった。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
妻の記録に「それでも早く床につき、大きな鼾をかいた」とあることから、死因は「脳出血」だったと推測されている。
七日後に三十三歳になるはずだった。
あまりにも突然の死だったため、当時は「毒殺説」まで流れたらしい。
ミュラーの旅は終わった。数奇な運命に弄ばれた詩人ではなかった。創作の世界では市民的価値観に抗議の声は挙げても、私生活では放埓な行いもなく、「道徳的に正しい」安定した家族生活を維持した「普通の人」だった。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
ハイネの予言は当たらなかったが、シューベルトの歌曲によって「ヴィルヘルム・ミュラー」の名前は、後世まで語り継がれることになった。
それも、またひとつの人生である。
ミュラーは短い人生を疾走した。ゆったりとしたヴァンデルン(逍遥)ではなかった。(松下たえ子「ヴィルヘルム・ミュラー読本」)
『冬の旅』や『水車小屋の娘』だけからは知ることのできない詩人の人生は、短いながらも充実したものだったのかもしれない。
書名:ヴィルヘルム・ミュラー読本──「冬の旅」だけの詩人ではなかった──
著者:松下たえ子
発行:2021/06/10
出版社:未知谷
