レイモンド・カーヴァー「頼むから静かにしてくれ」読了。
本作「頼むから静かにしてくれ」は、1966年(昭和41年)『ディセンバー』に発表された短篇小説である。
この年、著者は28歳だった。
原題は「Will You Please Be Quiet, Please?」。
作品集としては、1976年(昭和51年)にマグロー・ヒルから刊行された処女短篇集『頼むから静かにしてくれ』に収録されている。
夫婦間の疑心暗鬼という普遍的なテーマ
本作「頼むから静かにしてくれ」は、過去の浮気を告白する妻によって、平穏な日常生活を失った男の、いわゆる「寝取られ文学」の作品である。
妻の浮気を暴いたことによって、自身を破滅へと追い込んでいく<ラルフ・ワイマン>の姿は、ひどく痛々しい。
それからドレスの下に手を入れてガーターベルトを外すマリアンの姿を! それからドレスをたくしあげて体を後ろにそらせているマリアンの姿を! それから興奮しているマリアン、「やって! やって! やって!」と叫んでいるマリアン。(レイモンド・カーヴァー「頼むから静かにしてくれ」訳・村上春樹)
男の勝手な妄想の中で、妻マリアンはどんどん淫乱な女性となり、そのことが、さらにラルフを異常な興奮へと誘いこんでいく。
本来、マリアンは、そのように淫乱な女性ではないはずだが、貞淑な妻と不倫妻とのギャップが、男の妄想を逞しくするのだろう。
痛ましいまでに錯乱するラルフの姿が物語っているものは、夫婦関係の難しさというやつだ。
どんなに仲睦まじい夫婦でも、互いの心の中まで覗き見ることはできない。
「いや、これでもう十分だ」ラルフは言った。「今夜はもうたっぷりとアクションはやったよ。今夜俺は発見したんだよ。俺の女房が二年前に他の男と浮気をしていたことをさ。それが今晩明らかになった」(レイモンド・カーヴァー「頼むから静かにしてくれ」訳・村上春樹)
夫婦間の疑心暗鬼という普遍的なテーマが、この物語の緊張感を支えている。
妻の魅力的なボディに抗しきれない男の弱さ
もう一つ感じるのは、マリアンに対するラルフの愛情の強さだ。
愛情が強ければ強いほど嫉妬は大きいとでも言いたいくらい、激しく荒れ狂うラルフの姿は、マリアンへの執拗な愛情を感じさせる。
彼の目は台所の中をあちこち素早く移動していた。レンジからナプキン・ホルダー、レンジ、食器戸棚、トースター、そしてまた彼女の唇、テーブル・クロスの馬車。妻に対するただならぬ欲望が股間で疼くのを彼は感じた。(レイモンド・カーヴァー「頼むから静かにしてくれ」訳・村上春樹)
妻の浮気セックスを暴きながら、ラルフは、明らかに性的に興奮している。
貞淑な妻の裏切りが、妻に対するラルフの欲情を激しくかき立てているのだ。
実は、このような倒錯したラルフの興奮こそが、この物語の本質的なテーマではないかと、自分は考えている。
そして、そのことを最も象徴しているのは、ベッドの上で再会した夫婦の情景である。
「ねえラルフ」と彼女は言った。妻の指の感触は彼を緊張させた。それから彼は少し体の力を抜いた。体の力を抜くと楽になった。彼女の手はラルフの腰から腹の上へと動いた。そして今では彼の体に自分の体をぴたりと押しつけ、上にのしかかり、前後に往復させていた。(レイモンド・カーヴァー「頼むから静かにしてくれ」訳・村上春樹)
ラルフは、妻の浮気を受け入れ、今、妻の体に自分の体を委ねようとしている。
結局、妻の魅力的なボディに抗しきれない男の弱さ。
淡々としたミニマルな文章が、男の本質を次々に暴いていくところに、この作品の魅力がある。
ところで、本作が収録されている短篇集の邦訳タイトルは『頼むから静かにしてくれ』だが、村上春樹がレイモンド・カーヴァーを日本へ紹介し始めた頃には、違う書名が用いられていた。
例えば『ぼくが電話をかけている場所』(1983)の「訳者あとがき」には『どうかお静かに』とあるし、『ささやかだけれど、役にたつこと』(1989)の解説でも『お静かに願います』とある。
「頼むから静かにしてくれ」は、妻の浮気を知って激高しているラルフが、突き放すようにしてマリアンへ叫ぶセリフだから、『頼むから静かにしてくれ』以外の訳はない。
「放っておいてくれ」と彼は言った。「ラルフ、お願い、ドアを開けて」と彼女は言った。「頼むから静かにしてくれないか」と彼は言った。(レイモンド・カーヴァー「頼むから静かにしてくれ」訳・村上春樹)
1980年代に出版された、村上春樹訳によるレイモンド・カーヴァー作品集には、なぜか「頼むから静かにしてくれ」は収録されていない。
もしも、『お静かに願います』というタイトルの作品があったとしたら、どんな作品になっていたのだろうか。
作品名:頼むから静かにしてくれ
著者:レイモンド・カーヴァー
訳者:村上春樹
書名:頼むから静かにしてくれ Ⅱ
発行:2006/3/10
出版社:中央公論社