永井龍男「夕ごころ」読了。
本書「夕ごころ」は、1980年(昭和55年)に講談社から刊行された随筆集である。
さりげない回想の中にある戦前・戦後の文壇史
本書には、身辺雑記と文壇回想と、大きく二種類の随筆が収録されているが、文学好きの人に興味深いのは、昭和文壇史を辿るような、数々の文壇回想だろう。
「ある同窓会」は、銀座にあった小料理屋<はせ川>が、画廊に転業するというときに開いた、<はせ川学校同窓会>の話である。
六月三十日夜、「はせ川学校同窓会」が開かれた。出席者は十数名、井伏鱒二、河上徹太郎、中島健蔵、横山隆一、安住敦、龍岡晋、広瀬三郎、徳田雅彦、式場俊三、香西昇、渋谷清、遅れて草野心平、伊馬春部の諸氏も馳せ参じたということであった。(永井龍男「ある同窓会」)
<はせ川学校同窓会>の提案者は永井龍男で、宴の盛り上がったところで、河上徹太郎に代表の挨拶を振るが、「おれはいやだ」と言って取り合わない。
いくら頼んでも、まったく動じない様子だったので、仕方なく中島健蔵に挨拶を求めると、中島健蔵はさらりと祝いの挨拶を述べて、場を納めてくれた。
さらに、締めの三本締めを最長老の井伏鱒二にお願いすると、「ぼくは、そういうことをしたことはないので、他の人に頼んで下さい」と、再び固辞されてしまった。
河上徹太郎に断られた時点で立腹していた永井龍男は、「井伏さん、それはどうでしょう。いままで何度かお願いして、手を締めていただいた覚えがありますが」と、多少とも食ってかかる調子で責めると、「それじゃあ、やります」と、井伏さんは照れくさそうに折れて出たということである。
七十歳を越えた年寄りが、まるで子ども同士みたいに言い合っている様子が楽しい。
「へっぽこ先生」は、川上澄生の『明治少年懐古』を懐かしく回想する話である。
この本の中から、私は幾たび短文を引用させていただいたか知れない。私に『石版東京図絵』という長篇小説がある。東京の下町を背景に、明治末から大正へかけての職人を書いた極めて狭い世界の小説だから、内容はとにかくとして、単行本の装幀は川上澄生氏にお願いしたので、おかげでよい本ができた。昭和四十二年のことである。(永井龍男「へっぽこ先生」)
川上澄生が『明治少年懐古』を出版したのは、終戦前の昭和十九年のことで、翌二十年三月には宇都宮での教員生活を辞めて北海道の白老郡白老村字白老という所へ疎開した。
白老村(現在の白老町)は、奥さんの郷里だったそうである。
ちなみに、「へっぽこ先生」は、川上澄生が自らの履歴を語ったときの言葉だった。
さりげない回想の中に、戦前から戦後にかけての文壇史がある。
一年を振り返り、己の半生を振り返る季節
晩年の身辺雑記もいい。
「霜柱」は、「草のように、私は生きてきた」という文章で始まる、人生を振り返るような随筆である。
私は一茎の、あるいは一株の雑草であった。ある時は、一本の木のように思い上ったこともあったが、そんな迷いから醒めてみても、さほどがっかりした覚えもない。生きているうちには、またなにか考えなおすこともあろうかと思って過した。(永井龍男「霜柱」)
短いけれど、悟りを感じさせる、良い随筆である。
「十二月の街」では、不景気の街と静かに向き合いながら、己の半生を思い起こしている。
夕焼けが濃く西空の果てを染める日が続くと、十二月がきたなと思う。一種、煮つまりつくした赤さである。ながめているうちにも、どんどん暮れて、そこここの街の灯が浮き出してくる。年の終りが近づくと、人間というものは、今年はこうだったが来年はこんな具合に生きたいなどと考えるものだが、今の若い人たちも、今年を振り返り来年に期待するだろうか。(永井龍男「十二月の街」)
「来年はさらに不況といわれ、大学卒の人々も近来にない就職難と聞く」という文章が続き、高度経済成長に至るまでの時代が、思い起こされていく。
十二月というのは、一年を振り返り、己の半生を振り返る季節でもあるのだ。
今の季節に読みたい、そんな随筆集である。
書名:夕ごころ
著者:永井龍男
発行:1980/1/30
出版社:講談社