野田宇太郎「日本の旅路」読了。
本書「日本の旅路」は、1968年(昭和43年)に刊行された紀行文集である。
この年、著者は59歳だった。
野田宇太郎の旅は文学の旅である
冒頭、昭和22年1月に書かれた「馬籠手帳」がある。
当時、九州の同人誌『文学者』に発表されたもので、これが野田宇太郎初めての紀行文だったと「日本の旅路後語」に記されている。
その後、野田宇太郎は、昭和25年に始めた「文学散歩」の分野で多くの著作を出しているが、いわゆる「雑文集」の類を出版したことはなかったらしい。
本書『日本の旅路』には、新聞や雑誌などに発表された旅の雑文(つまり紀行文)が収録されている。
野田宇太郎の旅は文学の旅である。
どこを訪れても、野田宇太郎の旅に文学の匂いがしないことはない。
先の「馬籠手帳」は、島崎藤村の故郷を訪ねた際の記録で、菊池重三郎の案内を受けた著者は、島崎藤村の詩「初恋」に詠われている女性<お由さん>と面会している。
「この道は初恋の道です」そう云ったのは菊池さんである。初恋の道──何故なら、妻籠に寄るという目的は、藤村の詩「初恋」にうたわれたその相手、お由さんにお目にかかることであったからである。(野田「馬籠手帳」)
島崎藤村の初恋の相手が、まだ生きている時代だったのだ。
「羽生」は、田山花袋ゆかりの地を訪れた際の紀行文。
羽生と云っても知る人は少い。田山花袋の『田舎教師』の墓のある、あの埼玉県の羽生だといえば、文学趣味のある人ならば、ああ、と位の返事はする。「四里の道は長かった。其間に青縞の市の立つ羽生の町があった……」という有名な書き出しではじまる『田舎教師』だからである。(野田宇太郎「羽生」)
田山花袋の『田舎教師』が刊行されたのは、1909年(明治42年)のことだが、本書『日本の旅路』には、明治文学に由来する話が多い。
高度経済成長期、「明治は遠くなりにけり」の郷愁が、文学の旅にも反映されていたのかもしれない。
ちなみに、中村草田男が「降る雪や明治は遠くなりにけり」の句を詠んだのは、1931年(昭和6年)のこと。昭和初期にして、明治は遠くなりつつあったのだ。
旅情豊かな野田宇太郎の旅
野田宇太郎の紀行文には、旅の記録や歴史解説に留まらない旅情があるのがいい。
女はいそいそとその船まで送って来た。すがすがしい朝の断崖の道で見ると、いよいよしとやかで美しい女だった。こんな僻地に独身でいるのは別に何か事情があるのだろうと疑いたくなった。(略)あれからもう三年、下灘の女はどうなったであろうか。わたくしはボラが食膳にはこばれるたびにあの女のことを思い出すが、下灘ほどうまいボラにはあれからついぞ出あわない。(野田宇太郎「下灘のボラ」)
これは、淡路島は下灘にある宿屋の女性についての思い出を綴ったものだが、野田宇太郎は詩人だけあって、実に詩的な旅行文を書いた。
いささか、感傷的すぎる気がしないでもないが、旅に感傷は付き物である。
むしろ、旅情を思い起こさせない紀行文なら、読まない方がマシだと思うくらいだ。
過去とは背に廻った未来である、と云ったのは木下杢太郎である。明治時代の西洋建築がいよいよ美しい時代になった。古いものの新しさが再認識されねばならぬときが日本にも、ようやく到来したというべきかも知れない。(野田宇太郎「海峡」)
昭和42年に発表された「海峡」は、門司を訪ねたときの思い出を寄せたものだが、野田宇太郎は、門司について「もう他都市のようにヒステリックに新装ばかりをあせる都市である必要もない」と、まるで追悼みたいな言葉を寄せている。
野田宇太郎の紀行文は、記憶の中の街並みが消えてゆくことの寂しさを綴る、詩でもあったのだろうか。
高村光太郎「犬吠の太郎」に登場する犬吠岬、石川啄木を偲んで与謝野鉄幹・晶子夫妻が訊ねたという函館、<銀嶺>という古いレストランを愛した長崎、若き日の幸田露伴を探して、幸田文と旅した余市、、、
野田宇太郎の旅は、どこまでも感傷的な旅だと思った。
だからこそ良いのだ、とも思った。
書名:日本の旅路
著者:野田宇太郎
発行:1968/08/15
出版社:雪華社