福原麟太郎「天才について」読了。
本作「天才について」は、1972年(昭和47年)4月に新潮社から刊行された随筆集である。
この年、著者は78歳だった。
筋を通して生きる
福原麟太郎の随筆を読むと、気持ちが凛となる。
身が引き締まるような思いがする。
難しいとか高邁とか、そういうことではない。
一人の大人の人間として、しっかり生きなければいけないと、気持ちが改められるのだ。
例えば、戦後の荒廃の中で書かれた「信義」。
誰も彼もが信義を守らなくなれば、社会機構は止ってしまう。共産主義も文化国家もなくなる。とにかく自分の守るべき信義だけは、損をしても守ることにしようではないか。(福原麟太郎「信義」)
「損をしても守ることにしようではないか」というところがいい。
戦争中も英文学を勉強し続けた話にも、福原さんの正義感が感じられる。
私は日本が敗けたら英語の教師など馬鹿馬鹿しくてやっていられないだろうと思っていた。然し敗けるまで、生きている限り、英文学を勉強しようと思っていた。私どもの研究室は毎週毎週読書会を続けた。(福原麟太郎「猫」)
戦争が終わった途端、安全なところへ疎開していた文化人たちが戻ってきて、日本の愚かさを笑ったり、敗戦を当然の帰結とするような方言をしたりするのを聴いて、福原さんは「私は腹が立った」「そんなのはフェアプレーの言説ではないという気がして良い心持でなかった」という。
「こんどはいよいよあなた方の世の中になりましたね」と言われると、「国が滅びてから商売が繁盛するために今まで英語を勉強していたわけではありません」と答えた。
生き方の中に、すごくしっかりとした筋が一本通っている。
あの戦争中に、そんな生き方を貫いたというのも「損をしても守ることにしようではないか」という精神に通じるものがあるだろう。
福原さんといえば、読書に関する随筆がいい。
小説、詩歌の本に限らない。無味乾燥と思える学問の書でも、そういう楽しい執着をもって、がむしゃらに読めるものである。読書の楽しみというのはそれだ。それは生きることとともにある楽しみというものではないだろうか。(福原麟太郎「読書の愉しみ」)
1956年(昭和31年)1月3日の朝日新聞に掲載された「新潮文庫」の広告文とある。
新聞をめくっていて、福原さんの随筆が載っているのを見つけた人は、きっと幸せな気持ちになることができただろう。
うらやましい時代だと思う。
私は本棚を見る。そうすると一昨年買って置いた書物が一ぺんも読まれずに埃をかむっているのが目に付く。あああれをゆっくり読みたいなあと思う。(福原麟太郎「気を紛らされること」)
積ん読の本を見て「あああれをゆっくり読みたいなあと思う」気持ちは、すべての読書好きの人に通ずるものだ。
しかしまあ、諸行無常だと思ってもいる。読みたくて買って来て、読まない本が、目の前に何十冊でも何百冊でもあって棚に並び積み重ねてあれば、命のあるうちにこれを読んでしまうことは不可能だと、観念するのは当然である。(福原麟太郎「『鎮まれ、鎮まれ』」)
そんな福原さんの読書は「浪費主義」だった。
面白くなければ読まない。どんな本でも自分に本当に必要であり、本当に良書である限り面白くない筈はないものである。(略)面白くない本は自分に向かないか要らないかの本である。顔を洗って出直せば又面白いかも知れない本である。(福原麟太郎「浪費主義」)
「三章位読めば大抵書いてあることは解る」から、「小説など、お終いまで読ませられたら、それだけでこれは傑作という事にしてしまう」という姿勢。
「とにかく浪費である。どんどん読み捨てる。そして結局それが倹約である」の「倹約」というのは、結局、時間の倹約ということなのだろう。
限られた一生のうちに、少しでも多くの本に触れようと思ったら、つまらない本に関わり合っている時間がもったいない。
年齢を重ねるほどに、この感覚は強くなる。
若い頃は、時間は豊富にあるけれども、本を買うお金には不自由するものだ。
学生は貧乏だから、二時間それらの書棚の前をうろついて、いちいち本をめくってみていても、買って帰るのは、エヴリーマンス・ライブラリーの本一冊位のものであった。(福原麟太郎「よき日々の学生」)
「丸善が、赤レンガの三階建てで、入り口には、手長足長の柱が軒を支えていた」時代の、二階の洋書コーナーを、福原さんは、懐かしく思い出している。
福原さんの随筆では、昔を偲ぶ追想ものもいい。
人生に大きな関心を持つ
英語教師である福原さんが愛した書物は、もちろん英文学に関するものが多かっただろう。
ある日の午後、お茶の前に、そのさきまで歩いていって、国会議事堂の建物を仰ぎウェストミンスター橋の欄干によって、しばらくテムズの川波を見ていた。私は東京を出る時、たのまれた用事があった。それは、テムズ河に名刺を流してくれという依頼であった。(福原麟太郎「英京七日」)
1953年(昭和28年)8月、福原麟太郎は、英国政府の招待を受けて、河上徹太郎・池島新平・吉田健一とともに、イギリスを訪れている。
そのときの紀行随筆は、本書『天才について』に、いくつも収録されているが、ウェストミンスター橋からテムズ河に頼まれてきた名刺を流す場面は印象的だ。
この随筆のことは、庄野潤三『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』に出てくる。
河上さんたちと一緒の、日程の詰まった英国滞在中のひとこまであるが、私は福原さんに名刺をことづけた方がどなたか知っている。それは昭和五十三年一月に亡くなった作家の十和田操さんで、この人は戦後、朝日新聞出版局の図書編集部にいた頃、英文学という題の本をかねてから敬愛する福原さんに書いて頂くために野方のお宅へ通った方である。(庄野潤三「陽気なクラウン・オフィス・ロウ」)
十和田操は、野方にある福原麟太郎の自宅を訪ねて、「ラムの愛したロンドンに敬意を表すために名刺をテムズ河に流して頂けませんか。一生のうちにロンドンを見物することもないでしょうから」と依頼したらしい。
福原さんを敬愛する庄野さんの言うことだから、このエピソードは確かなことだったのだろう。
本書『天才について』にも、庄野潤三という名前が登場する。
庄野さんの名著『ガンビア滞在記』は、この村に一年住んだ記録で、中にランソム先生も時々出てくる。不思議なことに、今日来た「新潮」には、その庄野さんが、ガンビアの農民のことを書いた小説、「二つの家族」というのが載っているのである。(福原麟太郎「或る月曜日」)
「何と言っても『ガンビア滞在記』は名作である。ギャルスケ夫人の『クランフォード(女ばかりの町)』に比すべきものである」と言って、福原さんは、庄野さんの『ガンビア滞在記』を絶賛している。
福原さんの随筆を読む楽しみと、庄野さんの随筆を読む楽しみには、何かしら共通するものがあるのかもしれない。
庄野さんは、福原さんの「治水」という随筆を絶賛している。
そこで、かかる治水土木家の有名なる人は誰であったろうと、昔習った東洋史や日本史をふり返って見たけれど、さて一つも名前が浮んで来なかった。少年の頃読んだ傑士偉人伝中にも一人位はいたようである。(福原麟太郎「治水」)
単なる庭の水溜まりをどうにかしただけの話なのだが、福原さんはデューカリオンの洪水を引用して、歴史の中で活躍した治水土木家のことを思う。
こうした随筆文学の背景となっているのは、チャールズ・ラムを始めとするイギリス・エッセイで、福原麟太郎と庄野潤三を繋ぐ重要な接点もまた、イギリスのエッセイ(特にチャールズ・ラム)だった。
まわりに散らばっている本は、たいがいチャールズ・ラム関係の本である。ラム伝を雑誌に連載してもらっている。いつのまにか三年、いやもうそろそろ四年になる。今はそれを書くのが仕事のようになった。(福原麟太郎「初秋」)
イギリスのエッセイというのは、ヒューマン、究極では人生を描くものだ。
薄暗い住宅街の夜道、ところどころに街灯の立った淋しい道を、ぼんやりした老人の影法師が、犬をつれて、空を眺めながらゆるゆると散歩している。今夜も明日も。来年も再来年も。百年の先にも、きっと。(福原麟太郎「散歩」)
日常の散歩を綴った文章の中にも、人生の味わいがある。
小説で言えば、井伏鱒二の文学に通じるものがあるかもしれない(「或る金曜日」には、井伏鱒二『取材旅行』も登場している)。
福原さんは、人間の人生というものに大きな関心を持った人だったと思う。
人の一生という事を考えると、種々様々で、そのうちみんな死んでしまう。死んでしまえば誰の一生も相当に面白いものである。伝記文学は特別な英雄や天才を主人公としなくとも成立しうるものだろう。(福原麟太郎「人の一生」)
人生に、まったく同じ人生というものはない。
庄野潤三や井伏鱒二は、無名の庶民をモデルに小説を書いていたけれど、無名とか有名というのは、小説の面白さとは関係のないものである。
他人の人生の中に、何を感じるのか。
その感性が問われているのかもしれない。
書名:天才について
著者:福原麟太郎
発行:1990/11/10
出版社:講談社文芸文庫