読書体験

山口瞳「居酒屋兆治」全力で生きている不器用な男たちへの応援歌

山口瞳「居酒屋兆治」全力で生きている不器用な男たちへの応援歌

山口瞳「居酒屋兆治」読了。

本作「居酒屋兆治」は、1982年(昭和57年)6月に新潮社から刊行された長篇小説である。

この年、著者は59歳だった。

初出は、1979年(昭和54年)10月~1980年(昭和55年)11月『波』(連載時のタイトルは「兆治」)。

不器用な男たちの物語

本作『居酒屋兆治』は、不器用な男たちの物語である。

主人公(藤野伝吉、愛称は兆治)は、いつまで経っても初恋の女を忘れることができない。

「さよちゃんは、そんな女じゃない」と兆治は思った。しかし、自分の責任であるかのように胸が痛んだ。「姑に苛められて、いたたまれなくなったんだろう」(山口瞳「居酒屋兆治」)

若くして結婚したさよは、決して幸福な人生を歩んでいるのではなかった。

兆治が電話に出たとき、電話の向うの声が、あたしよ、わかる? と言った。それだけで、あとは兆治が何を言っても泣いているだけだった。(山口瞳「居酒屋兆治」)

女が幸福な結婚生活を送っているのであれば、主人公(兆治)もあきらめをつけることができたかもしれない。

女(さよ)は、裕福な家庭を捨てて、夜の街をさまよっている。

「恥ずかしい話ですが、金持に憧れがあったんだと思います。さよのところも同じでした。いや、両親がいませんから、もっと惨めな生活でした。それで、こう思ったんです。好きあっている二人のうち、どっちか一人が仕合せになるんなら、それでいいじゃないかって」(山口瞳「居酒屋兆治」)

それが、生き残ることだけでも難しい、あの「戦後」という時代だったのだ。

会社を辞めたのも、仲間たちの首を斬る(総務課長の)仕事を受け容れられなかったからだ。

オイル・ショックにより、希望退職、肩叩き、窓際族などという言葉が流行語になりかかっていた。「俺に、東大出の工学博士の首が切れるか。俺に、そんな資格があるのか」(山口瞳「居酒屋兆治」)

他人の首を切れないから、自分から会社を辞めた。

小さなモツ焼き屋を始めたのは、失業手当の受給が切れたあとのことだ。

一日に、二万円の売りあげがあればいいと思っていた。それ以上、欲をだすと、ロクなことはない。赤提灯で終りたいと思っていた。(山口瞳「居酒屋兆治」)

もちろん、そんな兆治の姿勢を消極的と受け取る客もいないわけではない。

煮えきらねえんだよ。おめえんとこの煮込みと同じだよ。おめえが会社を馘首(くび)になったっていうのはね、俺にはわかるな」河原は鍋のなかに自分の箸を突っこんで出ていった。(山口瞳「居酒屋兆治」)

不器用なのは、客も同じだ。

堀江は、土曜日が休みになっても、出社する習慣をやめることができない(「二日も続けて休むなんてねえ」)。

何と言うか、体のほうが納得しないんですね。なにしろ、外地から復員してきて、ずっと、めちゃくちゃに働いてきましたからね。最初は繊維の会社で、証券会社にもいましたし、小さな印刷所をやっていたこともあるんです。体を苛めることに馴れてしまったんですかねえ」(山口瞳「居酒屋兆治」)

彼らは、戦後の高度経済成長を支えてきた「モーレツ・サラリーマン」である。

窓際族って、あれ、窓際族のうちはまだいいんです。そのうちに、仕事がなくなってしまいましてね。もっとも、今年の暮で停年になるんですが」(山口瞳「居酒屋兆治」)

戦後を生きたサラリーマンの悲しさが、そこにはある。

元小学校長の相場は、30歳近くも歳の離れた若い女性(多佳)と結婚した。

「若い女房を貰うっていうのは、人の思うようなことじゃないんですね。これ、残酷なんですよ。悲惨ですよ」(山口瞳「居酒屋兆治」)

主人公(兆治)は、多佳が孤児だったことを知っているから、街の人たちのように、相場校長の蔭口を言う気にはなれない。

不器用な客が集まる店、それが「兆治」だったのかもしれない。

もちろん、自分が損をして生きていることを、兆治はちゃんと理解していた。

兆治は、世の中っていうのは行き難いもんだなと思った。面倒なものだなと思った。「河原さん、気のすむまで殴ってくださいよ。私、本当に気がつかなかった。どうか、思いっきり……」(山口瞳「居酒屋兆治」)

それでも、兆治は、自分の生き方を変えようとはしない。

彼は、とことんまで不器用な男だったのだ。

兆治は、野球が好きだった。

常に全力で試合に臨んでいる選手が好きだった。

プロ野球のオールスター戦で、こんなことがあった。

このままいけば延長線になるという九回裏。

ベンチから阪急の山田久志とロッテの村田兆治が出てきて、ブルペンに向って走っていった。そのとき、山田は、村田に、「兆治、行こう!」と、声をかけたそうである。二人の主戦投手が走っていった。(山口瞳「居酒屋兆治」)

前日の試合でも投げていた二人に、この日の登板予定はなかった。

彼らは、常に全力でなければならなかったのだ。

土曜日にも休むことができないモーレツ社員(堀江)のエピソードと、それは重なって見える。

兆治は、要領がいいだけの人間というのが許せなかったのだ。

「甘いんだなあ、俺は……。しかし、すべからく、世の中は、そうであってほしいし、そういうものだと思っていた」(山口瞳「居酒屋兆治」)

本作『居酒屋兆治』は、全力で生きている大人たちへの応援歌である。

見た目を気にしながら生きているのではない。

人生と本気で向き合っているからからこそ、不器用な彼らは輝いて見せる。

「不器用讃歌」と言ってもいい。

彼らは、ただ、自分の生き方を変えることができなかっただけなのだ。

『居酒屋兆治』の実在モデル『文蔵』

本作『居酒屋兆治』には、明確なモデルが存在する。

東京都国立市の南武線谷保駅の近くにある『文蔵』である。

私は、以前、文蔵をモデルにして『居酒屋兆治』という小説を書いた。それが映画になり主人公の兆治を高倉健さんが演じた。(山口瞳「行きつけの店」)

文蔵の主人(八木方敏)は、国立市の詩人(草野心平)とも交流があったという。

文蔵へ行くと、九時頃まで、八木さんは客に背を向けてモツを切って串に刺している。口をきかない。不機嫌である。(山口瞳「行きつけの店」)

作者(山口瞳)は、多くの著作で「文蔵」を紹介した。

夕刻、小学館の編集者が四人で来る。四人はまかないきれないので、南武線谷保駅のそばの『文蔵』というヤキトリ屋へ行く。正しくはモツ焼き屋というべきか。(山口瞳「谷保村の酒」/『旦那の意見』所収)

山口瞳と交流のある多くの作家や編集者が、この店を訪れた。

谷保まで歩けば、『居酒屋兆治』のモデルになったもつ焼きの文蔵がある。(略)山口さんが亡くなる一年前、テレビ版『行きつけの店』で、ぼくは山口さんと並んでもつ焼きを食べた。(嵐山光三郎「山口瞳が愛した国立」/『山口瞳の人生作法』所収)

「文蔵」の主人(八木方敏)は、山口瞳を「心優しきおやじ」と呼んだ。

山口先生に初めてお会いしたのは私が、会社勤めをやめて東京の西郊、国立市の南武線谷保駅近くで居酒屋「文蔵」を始めた昭和五十年のことだった。(八木方敏「心優しき『おやじ』山口瞳」/『山口瞳の人生作法』所収)

山口瞳は、実際に「文蔵」で体験したことを素材として、『居酒屋兆治』を書いたらしい。

作品で「文蔵」が初めて活字になった時は、うれしくて興奮した。先生は店で感じたことや、お客さんの話を手帳のようなものにメモされていた。(八木方敏「心優しき『おやじ』山口瞳」/『山口瞳の人生作法』所収)

「文蔵」の八木さんは、テレビドラマ版『居酒屋兆治』にも出演している(モツ焼き屋の師匠の還暦を祝う宴会の場面)。

『居酒屋兆治』が、初めてテレビドラマ化されたのは、1992年(平成4年)で、兆治役を渡辺謙が務めた(初恋の女性「さよ」役は美保純)。

2020年(令和2年)には、NHK・BS「リバイバルドラマ」シリーズで、遠藤憲一主演により、再度テレビドラマ化されている(「さよ」役は井川遥)。

歌謡曲が男たちの人生だった

不器用な男たちの物語を支えているのは、次々と登場する歌謡曲の世界である。

「これは、あれ、なんて言いましたっけね、あの歌。どうもそっちのほうは、からっきし駄目でしてね。ええと、そうです、『夢追い酒』ですか。……あなたなぜなぜ妾(わたし)を棄てた、ええと、それから、最後が、夜の酒場で一人泣く、ですか」(山口瞳「居酒屋兆治」)

渥美二郎『夢追い酒』は、1978年(昭和53年)発売で、1979年(昭和54年)から1980年(昭和50年)にかけて大ヒットした。

その後、渥美二郎は『釜山港へ帰れ』もヒットさせている(1983年/昭和58年)。

彼は酩酊していて、峰子の肩を抱えている。(略)「八代亜紀の新曲で『舟唄』っつうの……」「へええ。新曲かね。勉強してるねえ」(山口瞳「居酒屋兆治」)

八代亜紀『舟唄』は、1979年(昭和54年)のヒット曲。

翌年の1980年(昭和55年)、八代亜紀は、続く『雨の慕情』を大ヒットさせて、日本レコード大賞を受賞した。

歌謡曲が、大衆文化の中心にある時代だったのだ。

キャバレーの女たちが張りあうようにして歌いだした。「♪若い二人が初めて逢った、真実(ほんと)の恋の物語~」(山口瞳「居酒屋兆治」)

『銀座の恋の物語』は、石原裕次郎と牧村旬子のデュエット曲で、1961年(昭和36年)発売。

1962年(昭和37年)公開の映画『銀座の恋の物語』(主演は石原裕次郎と浅丘ルリ子)の主題歌にもなった。

井上の歌が『花と蝶』になった。「俺、踊ってみようか」有田が座敷へあがった。(山口瞳「居酒屋兆治」)

森進一の『花と蝶』は、1968年(昭和43年)発売。

この曲の大ヒットで、森進一は紅白歌合戦に初出場した(デビュー3年目だった)。

さよの葬式の夜は、仲間たちが歌いまくった。

「酒で救われることもあるんですね。酒で死んだ女もいますが」久太郎は熱燗の酒を顔を顰めて半分ばかり飲みほした。「♪君恋し、思いは乱れて苦しき夜を、誰がため忍ばん~」(山口瞳「居酒屋兆治」)

『君恋し』は、「魅惑の低音」フランク永井がリバイバルで、1961年(昭和36年)ヒットさせた。

オリジナルは、1922年(大正11年)に二村定一が歌ったもの。

♪冷たくなった私を見つけて、あの人は涙を流してくれるでしょうか~「まあ、ねえ、『アカシヤの雨が止むとき』なんて、うちの青年会は、ちょっと古いんでねえの」(山口瞳「居酒屋兆治」)

西田佐知子『アカシヤの雨が止むとき』は、1960年(昭和35年)4月発売。

1960年(昭和35年)の日米安保闘争を象徴する歌謡曲としても知られている。

「♪忘れたことなど一度もなかったわ、いろんな男を知るたびに……~」兆治は不思議に涙が出なかった。(山口瞳「居酒屋兆治」)

小林旭『昔の名前で出ています』は、1975年(昭和50年)発売。

実際にヒットしたのは1977年(昭和52年)からで、この年、小林旭は紅白歌合戦に初出場している。

男たちは(女たちも)歌謡曲の世界に、自分の感情をオーバーラップさせていた。

歌は、彼らの青春であり、人生であったのだ。

そういう意味で、本作『居酒屋兆治』は、純歌謡曲小説として読むこともできるだろう。

山口瞳の俳号は「偏軒」

本作『居酒屋兆治』は、極めて俳句的な世界観を持った作品である。

九月の初めだった。梅雨時にも、こんな日がある。兆治は、Tシャツでズボンをはき、前掛けをしめて、うしろむきでモツを切っていた。(山口瞳「居酒屋兆治」)

季節感豊かな情景を、短いセンテンスのフレーズで紡ぎだす。

それは、いかにも俳句の世界に近い。

「学生さんか」「そうなんだ。こればっかりは、どうも……」「泣いて行くウエルテルに逢ふ朧哉。まあ、そういうやつだね」(山口瞳「居酒屋兆治」)

ところどころに、俳句好きが顔を出す。

「寅さん映画の寅さんみたいだ。本当は、あの人、頭は悪くないね」「本当は?」「学校の成績は悪いかもしれないけれどね。ああいう人っているんだね。そこで一句あり、だ。柴又のさくら溜息ばかりなり、っていうのはどうかね」(山口瞳「居酒屋兆治」)

もっとも、作者(山口瞳)の俳句活動は、決して公にはされていない。

山口さんは句会が苦手で、「銀座百点」句会から何度か誘われたけれど、出席したことはない、という。男性自身シリーズ「時雨るるや」に次の一節がある。(鈴木豊一「俳句編集ノート」)

山口瞳の作品が山本健吉の目に留まったのは、1977年(昭和52年)9月に銀座吉井画廊で開かれた車谷弘の芸術選奨文部大臣賞受賞記念の文壇俳句展だった。

子鰯も鯵も一ト塩時雨かな(山口瞳)

山本健吉は、1978年(昭和53年)4月28日付け『東京新聞』に「遊俳のひと車谷弘」というコラムの中で、山口瞳の俳句を採りあげたのだ。

山口瞳の俳句が活字になったのは、これが初めてだったらしい。

その他、活字となった山口瞳の俳句作品には、次のものがある。

大仏の青葉裏街行き止り
短日の浅葱幕まだ落ちずなり
訪ね行く家見えて来し花すすき
五月晴今日ペンキ屋の来る日なり

「大仏の」は、18歳のときの作品で、「短日の」は、初めて文士劇に出たとき、パンフレット用に作ったものだった。

「偏軒」の俳号を持つほど、俳句の好きな作者だったが、俳句は、あくまでも趣味の世界で嗜むだけだったらしい。

言ってみれば、山口瞳にとっては、コラムも小説も、すべてが俳句的なものだったのだ。

「ああ、ホロッときた。この値段で、ホロッと酔えた」(山口瞳「居酒屋兆治」)

モツ焼き「兆治」に集まる男たちの言葉は、そのまま俳句として読むことができる。

歌謡曲の世界と俳句の世界の融合。

不器用な男たちに、これほど似合う世界観もない。

『居酒屋兆治』を沢木耕太郎さんは、これはどう読んでも大衆小説じゃないというのですよ。それからどう読んでも純文学でもないと。(山口瞳「職業としての小説家!?」/『山口瞳の人生作法』)

大衆小説でも純文学でもない『居酒屋兆治』は、男たちのためのハードボイルド小説である。

「私は、ただ、自分の目の前にいる、自分の愛している、いや、自分に親しい女が幸福になれる、何不自由のない、私が憧れた生活に入れるって、そのことだけを考えていたんです。そんな時代だったんです」(山口瞳「居酒屋兆治」)

センチメンタルでハードボイルドなモツ焼き屋の夜。

もしかすると、こんな世界に男たちは憧れているのかもしれない。

書名:居酒屋兆治
著者:山口瞳
発行:1982/06/25
出版社:新潮社

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MAS@ZIN
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。