1927年(昭和2年)7月24日に自殺した文豪・芥川龍之介。
死の2か月前には、北海道・札幌市を訪れていた。
初夏の札幌で、芥川龍之介は何を考えていたのか。
今回は、芥川龍之介の来道生活について考察してみたい。
芥川龍之介の随筆「講演軍記」を読み解く
芥川龍之介の随筆「講演軍記」は、講演旅行で北海道を訪れた際の記録である。
円本ブームを支えた講演旅行
北海道における講演旅行は、文豪にとって決して愉快なものではなかったらしい。
僕が講演旅行へ出かけたのは今度里見弴君と北海道へ行ったたのが始めてだ。入場料をとらない聴衆は自然雑駁になりがちだから、それだけでもかなりしやべりにくい。そこへ何箇所もしゃべってまわるのだから、少からず疲れてしまった。(芥川龍之介「講演軍記」)
「入場料をとらない聴衆」とあるが、この講演旅行は『現代日本文学全集』の宣伝を目的とする改造社の主宰によるものだった。
『現代日本文学全集』は一冊一円の低価格で販売されて爆発的な人気を得た、いわゆる「円本」のこと。
昭和初期の円本ブームの陰には、こうした作家たちの地道な努力があったのかもしれない。
強行軍だった講演旅行
はじめに東北地方へ入り、仙台、盛岡で講演を行った二人は、5月17日に函館の講演会で登壇。
講演終了後、深夜の急行で函館を出発すると、翌朝、5月18日には札幌市内へ到着していた。
札幌で芥川龍之介は、北海道大学と大通小学校で、昼と夜の2回に渡って講演している。
札幌で一泊した後、翌朝には旭川へ出発。
旭川で講演終了後には、再び札幌まで戻って宿泊したらしい。
さらに、翌日は小樽まで移動し、花園小学校で講演を行っている。
毎日が移動と講演の繰り返しで、当時の交通事情を考えると、函館~札幌、札幌~旭川の移動は、決して容易なものではなかったはずだ。
改造社の山本実彦君は僕等の小樽にいた時に電報を打っててよこした。こちらはその返電に「クルシイクルシイヘトヘトダ」と打った。(芥川龍之介「講演軍記」)
「苦しい、苦しい、へとへとだ」という二人の電報は、決して大袈裟なものではなかった。
5月13日(金)の夜行で東京を出発してから20日(金)まで一週間の間に、6か所(仙台、盛岡、函館、札幌(2回)、旭川、小樽)で講演を行っている。
移動はすべて汽車だから、健常な人であっても、この講演旅行は堪えたに違いない。
「講演にはもう食傷した。当分はもうやる気はない」と、芥川龍之介は「講演軍記」に綴っている。
妻(芥川文)に宛てて札幌から書いた絵葉書の中にも「こんなに烈しい旅とは思わなかった」と吐露された講演旅行。
芥川龍之介にとって、この講演旅行は「戦争」とも呼びたいほど、過酷なものだったのだ(だからタイトルが「軍記」となっている)。
北海道の印象
もっとも、旅して回った北海道の印象は悪いものではなかったようで、「北海道の風景は不思議にも感傷的に美しかった」と綴られている。
ただし、食べものには、相当苦労したらしい。
食いものはどこへたどり着いてもホッキ貝ばかり出されるのに往生した。里見君は旭川でオムレツを食い、「オムレツと云うものはうまいもんだなあ」としみじみ感心していただけでも大抵想像できるだらう。(芥川龍之介「講演軍記」)
「里見弴は旭川のオムレツをうまいと言った」という伝説があるが、旭川のオムレツが特別に美味しかったわけではない。
どこの町でも「北寄貝(ホッキ貝)」ばかり出されて嫌になっていたところ、海のない街・旭川ではオムレツが出てきたので、それが「おいしい」と思われたというだけのことだ。
東京で食べれば何の感慨もないオムレツでも、ホッキ責めが続いていただけに、ひとしおの感動があったのだろう。
ホッキ責めの北海道旅行
北海道旅行に対する芥川龍之介の印象は、とにかく「ホッキ貝」に象徴されている。
俳句にも詠まれたホッキ貝
5月24日、新潟から小穴隆一に宛てて書いた絵葉書には「北海道二句」として、自作の俳句が記されている。
北海道二句
ひつじ田の中にしだたる柳かな
ほっき貝と云う貝ありいずこの膳にものぼる
冴え返る身にしみじみとほっき貝
「ほっき貝と云う貝あり、いずこの膳にものぼる」との前書きのあとで「冴え返る身にしみじみとほっき貝」の句がある。
季語「冴え返る」が語る芥川龍之介の苦悩
この俳句は、同じ日、佐々木茂索に宛てて書いた絵葉書の中にも登場する。
憶北海道
冴え返る身にしみじみとほっき貝
このほっき貝と云う貝は恐るべきものだ。どこの宿へとまっても大抵膳の上に出現する。(『芥川龍之介全集(第18巻) 書簡2』)
「冴え返る」は初春の季語で、暖かくなりかけた頃に、再び真冬のような厳しい寒さがぶり返すことを意味している。
芥川龍之介が来道したのは5月下旬だから「真冬のような厳しい寒さ」というのは、ちょっと大袈裟かもしれない。
それでも、ライラックの花咲く季節に寒さがぶり返すことを、現代では「リラ冷え」と言うから、東京から来た旅人にとって、初夏の寒さは「冴え返る」ようにも感じられたのだろう。
「リラ冷え」については、別記事「「リラ冷え」の語源は渡辺淳一ではない?俳句から小説へ繋がった誕生の真実」で詳しく解説しているので、興味のある方は参考にしていただきたい。
▶「リラ冷え」の語源は渡辺淳一ではない?俳句から小説へ繋がった誕生の真実
あるいは、この俳句にも、当時の芥川龍之介が抱えた精神的な負担を読み取ることは可能かもしれない。
季節以上に「冴え返る身」は、芥川龍之介自身の心中を語っていたと考えることができる。
冷え切っていたのは、あと2か月で自殺してしまう、作家の心だったのだ。
妻にも愚痴ったホッキの苦労
同じく5月24日に新潟から妻(芥川文)へ宛てて書いた絵葉書の中にも、ホッキ貝のことが書かれている。
くたびれ切っている。東北や北海道を廻って来ると食いもののうまいだけ有難い。どこに行っても御馳走ぜめに弱っている。就中北海道の「ホッキ」という貝はやり切れない。(『芥川龍之介全集(第18巻)書簡2』)
当時はよほど「ほっき貝」が、北海道の名物だったのだろうか。
現在、ほっき貝は、胆振管内苫小牧市の名産品として知られている。
紀行「東北・北海道・新潟」を読み解く
芥川龍之介には「東北・北海道・新潟」という旅行記もある。
もちろん、改造社主催の講演旅行をもとに書かれた作品で、1927年(昭和2年)6月21日に発表された。
「すすき野」と云う遊郭
「すすきの」は、東京の作家にも知られる遊郭だった。
もっとも、すすきのの遊郭は、1918年(大正7年)から1920年(大正9年)にかけて豊平川を越えた白石町へ移転しており、芥川の訪れた昭和2年には既になかったはずだ。
札幌──クリストは飢えに、大学生は下に、……「すすき野」と云う遊郭はどこですか?(芥川龍之介「東北・北海道・新潟」)
当時のすすきのは、女給が勤めるカフェやバーなどが並ぶ飲食店街だった。
植物園全体へマヨネエズをかけてしまえ
講演の合間に、芥川龍之介は北大植物園にも立ち寄っている。
又──あの植物園全体へどろりとマヨネエズをかけてしまえ。(傍白。──里見君、野菜だけはうまいでしょう)(芥川龍之介「東北・北海道・新潟」)
「あの植物園全体へどろりとマヨネエズをかけてしまえ」というフレーズは、瑞々しい植物園の美しさを表す言葉として、札幌市民に長く愛されている。
有島武郎の北海道地図
「東北・北海道・新潟」には、有島武郎の名前が登場する。
又──有島武郎氏はポケットの中にいつも北海道の地図を持っている。(芥川龍之介「東北・北海道・新潟」)
しかし、1923年(大正12年)、人妻(波多野秋子)と軽井沢で心中した有島は、この年(昭和2年)には既にこの世の人ではなかった。
芥川龍之介が自殺するのは「東北・北海道・新潟」の発表から一月後の、1927年(昭和2年)7月24日のことである。
まとめ│芥川龍之介の札幌
文豪・芥川龍之介は、なぜ自殺したのか?
豊かで美しい札幌の自然と、文豪の「ぼんやりした不安」
芥川龍之介は、早くから自殺願望を抱えていたとも言われる。
僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考えつづけた。(芥川龍之介「或旧友へ送る手記」)
一般に芥川龍之介の自殺の理由は「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」として知られているが、親族の暮らしを支えるための経済的な心労も少なくなかった。
強行軍とも言える東北・北海道への講演旅行も、経済的な理由から参加せざるを得なかったとする説がある。
残念ながら、初夏の瑞々しい植物園風景も、芥川龍之介の心を回復させるには及ばなかった。
札幌の植物園は、あの頃と変わらない美しさを、今も保ち続けているというのに。
初夏の札幌を旅したい方へ
石川啄木が「詩の都」と呼んだ札幌は、多くの文学者に愛された街である。
その札幌が最も美しく輝く季節が、芥川龍之介も訪れた初夏の頃だ。
札幌発の文学ブログ『時空標本』では、詩の都・札幌の観光情報も発信しているので、一味違う札幌散策を楽しみたい方におすすめ。
ライラックの名所巡り
初夏の札幌観光を楽しむなら、ライラックの花がおすすめ。
白い花咲くアカシヤの名所
札幌まつり(北海道神宮の例大祭)の季節は、アカシヤの白い花が見ごろ。
石原裕次郎も愛したアカシヤは、札幌の風物詩として有名。
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文学散歩ガイド(まとめ記事)
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