真尾悦子「阿佐ヶ谷貧乏物語」読了。
本書「阿佐ヶ谷貧乏物語」は、敗戦直後の阿佐ヶ谷で暮らした日々の回想録である。
終戦直後の「貧乏」は、生きるか死ぬかの「貧乏」だった
真尾悦子が、夫の真尾倍弘と二人、阿佐谷にある外村繁の自宅に引っ越してきたのは、昭和22年1月31日の午後であった。
それまで住んでいた中野のアパートを、妊娠したという理由で追い出された(外食の独身男性にしか貸さないという方針だった)。
なにしろ、敗戦直後の住宅難が極めて激しい時期だった。
夫が勤務する小さな出版社では、昭和21年から同人誌『文壇』の出版を請け負っていて、その同人の一人である外村繁の好意に縋るより他に道がなかった(『文壇』は、外村繁のほか、伊東整や上林暁、北川冬彦などが編集委員となっていた)。
外村家での暮らしは、昭和23年4月まで続くが、真野悦子の阿佐ヶ谷時代は、「酒」と「飢え」に悩まされ続けた一年ちょっとだったと言える。
経営不安定な出版社の給料のほとんどを、夫は飲み代に費やし、真野家には常にお金がなかった。
それでなくても食糧難がひどくて、闇市を利用しなければ何も手に入らない。
夫の倍弘は、青柳瑞穂や上林暁らの阿佐ヶ谷文士と飲み歩くことが仕事だと考えているらしかった。
もともと、悦子自身も青柳瑞穂や上林暁とは交流があった。
季刊文芸誌『素直』創刊の頃、外村に声をかけられて、その編集に携わっていたのだ(当時『素直』の同人には、外村や青柳、上林のほか、編集長である詩人の江口榛一や瀧井孝作、浅見淵などが参加していた)。
「仕事だぞ。吝嗇(けち)な真似して勤まると思うか、バカヤロ」この阿佐ヶ谷近辺には、上林暁、青柳瑞穂、井伏鱒二など多くの文人が住んでいた。呑ン兵衛の夫は、編集者なる職業に便乗し、外村家の間借り人という地の利も得てそのお仲間入りをした。(真野悦子「阿佐ヶ谷貧乏物語」)
倍弘は腹を空かして帰ってくるが、どれだけ文士と飲み歩いたところで、家に食べ物がないことには変わりがない。
長女・恵子が生まれても、ひもじい暮らしは変わらず、「ミナト」と呼んだ質屋通いで、どうにか暮らしを凌ぐ日々だった。
作品名の『阿佐ヶ谷貧乏物語』は、そんな暮らしに由来しているが、終戦直後の「貧乏」は、まさしく生きるか死ぬかの「貧乏」だった。
阿佐ヶ谷文士たちの戦後史
本書『阿佐ヶ谷貧乏物語』では、多くの作家が実名で登場していて、終戦直後のちょっとした文壇史となっている。
私がまだ赤坂書店に勤めていた二十一年に、新宿の武蔵野館で梅崎春生さんとチャップリンの「黄金狂時代」を観たことがある。主人公が、飢えて革靴の底をかじる場面があった。板敷きの床に坐った観客が拍手喝采をした。状況が客たちの現実とぴったり重なったのだ。しかし、梅崎さんの横顔はぜんぜん動かなかった。(真野悦子「阿佐ヶ谷貧乏物語」)
太宰治の名前もたびたび登場する。
青柳瑞穂の妻が急逝したときの葬儀に出席した夫の話。
「あの青柳さんが、と思うほどの悄気ようでねえ。井伏さんも見えてた。太宰さんが、ひょこひょこっときて、ろくに顔も上げないで帰っちゃった。みんなが呆気に取られてたら、井伏さんが、あれは照れてるんだよって、しきりに庇ってたっけ」(真野悦子「阿佐ヶ谷貧乏物語」)
最も頻繁に登場するのは、詩人でフランス文学者の青柳瑞穂だろう。
「何だ、こんなもの、くだらねえや。ね、青柳さん、詩はやっぱり朔太郎ですよねえ」「そうだ、君もそう思うか。彼は絶対だよ」詩人・萩原朔太郎を賛美した二人は、肩を寄せてコップを合わせた。開襟シャツの夫が得意そうに唇を横にしごき上げた。そのとき急に青柳さんの口が凋んだ。「あのね、僕はきのうリュック背負って満員列車に乗ったよ。買い出しってヤツだ。秦野まで行って、やっと芋一貫目売ってもらった」(真野悦子「阿佐ヶ谷貧乏物語」)
文士たちの戦後史。
本書には、貴重な証言がたくさん残されている。
こういう素晴らしい物語は、ぜひ、映画化してもらいたいなあ。
書名:阿佐ヶ谷貧乏物語
著者:真野悦子
発行:1994/9/10
出版社:筑摩書房