『1969新宿西口地下広場』という映画を観た。
1969年(昭和44年)の夏、新宿西口の地下広場に登場した「フォークゲリラ」を追った、ドキュメンタリー映画である。
前世紀の遺物となった新宿フォークゲリラ
高田渡に「東京フォークゲリラの諸君達を語る」という歌があった。
これから ちょいと
フォークソングについて
話してみようと思うのです
何をぶっ刺すかは わからない
なにしろ相手はフォークだから
あんたがたは知ってるだろ
新宿の西口の
フォークゲリラという連中をさ
あのかっこいいエリートさんらをよ
あのかっこいいヒーローたちをよ
その中の一人が この間
こんなことを漏らしてた
「自慢するわけじゃないが
僕は逮捕状が出ているんだ」とさ
今 流行りの関西フォークは
もうそろそろ限界に来たんだとさ
高石や岡林の歌は
もう 前世紀の遺物だとさ
そんなことを言ったあとに
奴らは歌ってた
関西フォークの大昔のレパートリー
そんなところをテレビは撮っている
今じゃネタ不足で
なんでもニュースになる
ゲリラの連中は こう言ったのさ
「マスコミは帰れ」って
カメラにポーズを取りながら
(高田渡「東京フォークゲリラの諸君達を語る」)
皮肉に富んだ歌詞は、いかにも高田渡らしいが、プロのミュージシャンが、レコードとして録音するような状況になるほど(しかも、シングル「自衛隊に入ろう」のカップリングだった)、新宿西口のフォークゲリラは、大きな社会現象となっていた。
1969年(昭和44年)2月下旬、新宿西口の地下広場に、ギターを持って反戦フォークを歌う若者たちが現れ、やがて、フォーク集会の参加者は、自然発生的に大きくなっていく。
事態を重く見た政府(東京都)は、「西口広場」を「西口通路」へと変更し、大量の機動隊を導入してフォーク集会の参加者たちを排除した。
その一連の経過は、ドキュメンタリー映画『1969新宿西口地下広場』に描かれているとおりだが、フォークゲリラたちによって歌われたプロテストソングの多くは、それこそ現在「前世紀の遺物」となってしまった。
若者たちを熱狂させたフォークゲリラの歌は、いったいどこへ消えてしまったのだろうか。
朝日ソノラマ『新宿広場’69』で再現するフォーク集会
朝日ソノラマ『音の雑誌』から『新宿広場’69』というのが出ている。
「歌う新宿フォーク・ゲリラ」「”ベ平連”街を行く」「’70年の闘将小田実」などと書かれた表紙を見れば分かるとおり、1969年(昭和44年)のベ平連の活動を、新宿フォークゲリラにフォーカスして取材したドキュメンタリー・ソノシートで、実際の新宿西口で実況録音されたフォークゲリラ集会の様子が収録されている。
有名な「機動隊ブルース」は、中川五郎作詞、高石友也作曲で大ヒットした「受験生ブルース」の歌詞を替えた、いわゆる替え歌である。
おいで皆さん 聞いとくれ
ぼくは悲しい機動隊
砂をかむような味気ない
僕の話を聞いとくれ
朝は眠いのに起こされて
乱闘服着て大学へ
強制執行が終わったら
無意識に学生なぐっていたよ
昼は悲しや
公園へ行けばデモ隊いっぱいで
女にもてない機動隊
やけのやんぱち 石投げた
夜は悲しや 機動隊
たまにはデモにも入りたいもの
ジグザグデモをがまんして
並進規制で 横目でにらむ
10.21 新宿で
暴力学生あばれたが
騒乱罪が何になる
おいらにゃ おいらの夢がある
女よりも大切なものは
防石たてにヘルメット
それにサイルイ弾に放水車
科学警察 バンザイ
今日のデモは静かでも
最初からサンドイッチ
あとで言い訳すると
うそつき広報班なに言うか
マージャン狂いの機動隊
ドロボーやってる機動隊
十年もやってる機動隊
どこがいいのか機動隊
大事な青春むだにして
ジュラルミンのタテに身をたくし
まるで河原の枯ススキ
こんなおいらにだれがした
(東京フォーク・ゲリラ「機動隊ブルース」)
「♪10.21 暴力学生暴れたが~」とあるのは、1968年(昭和43年)10月21日(国際反戦デー)の「新宿騒乱事件」を歌ったものだ。
村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』にも、新宿騒乱は描かれている。
二人目の相手は地下鉄の新宿駅であったヒッピーの女の子だった。彼女は16歳で一文無しで寝る場所もなく、おまけに乳房さえほとんどなかったが、頭の良さそうな綺麗な目をしていた。それは新宿で最も激しいデモが吹き荒れた夜で、電車もバスも何もかもが完全に止まっていた。「そんな所でウロウロしてるとパクられるぜ」と僕は彼女に言った。(村上春樹「風の歌を聴け」)
激しいデモによるインフラの機能停止は、1968年(昭和43年)を生きる人々にとっての共通体験でもあった。
高田渡が「♪奴らは歌ってた、関西フォークの大昔のレパートリー~」と歌った曲の代表選手が、岡林信康の「友よ」だっただろう。
友よ 夜明け前の闇の中で
友よ 戦いの炎をもやせ
夜明けは近い
夜明けは近い
友よ この闇の向こうには
友よ 輝くあしたがある
(岡林信康「友よ」)
「友よ」は、1968年(昭和43年)9月に発売されたデビューシングル「山谷ブルース」のB面曲で、60年代末期の社会運動を象徴する有名曲となった。
秋元治『こちら葛飾区亀有公園前派出所(第10巻)』所収「愛があれば…」において、一日署長にやってきたチャーリー小林が、両さんに優しく歌いかけるのが「友よ」で、この曲が、同時代を生きた人々の共通言語であったことが分かる(社会情勢に疎い両さんには通じなかったが)。
このとき、チャーリー小林は、「勝利を我等に」の原曲「We Shall Overcome」を先に歌っているが、「友よ」と同じように「We Shall Overcome」もまた、60年代末期の日本を代表する平和運動歌で、新宿フォークゲリラでは、一人の女性活動家(大木晴子・20歳)が、リードボーカルを取ったことで知られている(大木さんは「新宿の歌姫」とも呼ばれた)。
勝利の日まで
勝利の日まで
戦い抜くぞ
おお みんなの力で
勝利の日まで
(高石友也「We Shall Over Come」)
新宿のフォークゲリラ集会で歌われたフォークソングは、どこまでも「戦いの歌」だった。
それは「プロテスト・ソング(抵抗の歌)」とも呼ばれるように、一般市民が巨大な権力と向き合うためのツールとして発展したものと考えられる。
1968年(昭和43年)2月下旬から始まったフォーク集会は、毎週土曜日に開催され、あっという間に大規模化していく。
新宿フォークゲリラ集会の象徴的なテーマは、米軍ジェット機のための燃料を運ぶタンクローリーの運行停止だった(米軍にジェット燃料を提供することで、日本もベトナム戦争に加担しているとの認識があった)。
たとえば「ベトナム・ヌード」やその上を走る、不気味に走りつづけるジェット燃料をつんだタンク車、その日本の表情をかえようとするいくつかのグループがいて、その中にベ平連の花束デモもあれば脱走兵援助のグループもいれば、ガス弾がとびかい、涙がしぼり出されてくるようななかでキグチコヘイのラッパならぬフォーク・ゲリラのギターがひびきわたっている。(吉岡忍「風に吹かれて街へ!!」)
新宿西口のフォークゲリラ集会を主導したのは、「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」の青年組織「ヤングベ平連」である。
ぼくは、三月に彼らがうたいはじめた時からの大シンパで(なにしろそのために、わざわざギターを買い込み、イロハのイの字から練習して、いっしょにうたえるようになったぐらい)だから確信しているのだ、反戦フォーク運動はますます全国に広がりつづけるだろう! (室謙二「ギターを持って街へ出よう」)
フォーク集会やフォークゲリラと呼ばれる若者たちによる集会は、全国各地の都市で行われていたらしい。
大学や高校でも、広場などでいきなりギターを弾いて歌い始め、たちまち人垣が生まれて、やがてフォーク集会に発展する形も少なくなかった。
フォーク集会が定着すると、手書き・ガリ版刷りの歌集が製作される。
当時のフォーク集会の歌集を読むと、フォークゲリラの若者たちが、どのような歌を歌っていたのかが分かる。
「インターナショナル」は、フランスで生まれた革命ソングで、第二次大戦前まで、ソ連の国家でもあった。
いざ 戦わん
いざ ふるい起て
いざ
ああ インターナショナル
我等がもの
(「インターナショナル」)
「ひとりの手」は、ピート・シーガーの「ワンマンズハンド」に日本語の歌詞をつけたもの。
本田路津子のシングル曲としてヒットした(1971年9月発売)。
一人じゃ変えられない
世界は変えられない
でも みんなの力でなら
きっとできる
その日がくる
(「一人の手」)
「栄ちゃんのバラード」は、当時の佐藤栄作やニクソン大統領をアイロニカルに歌ったもの。
栄ちゃんの家に
ジェット機が落ちたら
栄ちゃんはそのまま
死んでしまうだろう
あの世できっと
後悔するだろう
安保条約
やめときゃよかったと
ニクソンの家に
ドロボーが入ったら
ドロボーはきっと
居直るだろう
お前もベトナムで
強盗しているだろう
お前もオレも同罪さ
「栄ちゃんのバラード」
「プレイボーイ・プレイガール」は、フォーク・キャンパーズのライブ録音で知られているが、各地でいろいろな歌詞が生まれたらしい。
プレイボーイ、プレイガール
勝手なまねするな
今限り 終わりだぜ
憲法違反の自衛隊
勝手なまねするな
今限り 終わりだぜ
世論を無視する佐ト政府
勝手なまねするな
今限り 終わりだぜ
日本の空だよ アメリカさん
ジェット機飛ばすな
僕たち もうごめんだぜ
みんながはくから
ミニスカートはく人
短い足出すな
今限りやめようよ
(プレイボーイ・プレイガール)
「進め!全学連」は、当時のフォーク歌集から拾ったものだが詳細不明。
闘いの火ぶたを切ろう
今ここに
自らの解放のため
大きな嵐を巻き起こせ
進め全学連
おれ達には明日はない
闘いの火ぶたを切ろう
今ここに
ヘルメットにゲバ棒で武装せよ
進め全学連
おれ達には明日はない
「進め!全学連」
当時のフォーク歌集を読むと、高石友也(「イムジン河」「明日なき世界」「主婦のブルース」「拝啓大統領殿」)や岡林信康(「山谷ブルース」「がいこつの歌」「くそくらえ節」)、高田渡(「自衛隊に入ろう」)、中川五郎(「殺し屋のブルース」「腰まで泥まみれ」「古いヨーロッパでは」「かっこよくはないけれど」)などのレコードに入っている曲が、多く歌われていたことがわかる。
若者たちは、フォークソングを歌うことで社会運動に参加し、フォークソングが世の中を変えると、真剣に信じていたのだ。
しかし、フォーク集会の象徴たる新宿フォークゲリラは、あまりに大規模なものとなったがために、当局による激しい弾圧を受けることになる。
1969年(昭和44年)6月28日、ガス弾を使ってフォーク集会を制圧した機動隊は、暴徒と化した活動家など、60名上の参加者を逮捕。
警察の圧力は功を奏して、新宿西口地下広場のフォーク集会は、1969年(昭和44年)7月12日を最後に姿を消したのだ。
新宿駅西口のフォーク・ゲリラの運動にたいする最近の規制やベ平連デモにたいする弾圧の激しさは、何としてでもベ平連に”暴力イメージ”を与え(最近の警察は、まったくささいなことで人民の身体を傷つけ、逮捕をくりかえすようになった)、そのことによって、不特定多数の大衆と尖鋭な運動部分とを切離そうとしているかに見える。(鶴見良行「夜明け人間たち」)
2月下旬から7月上旬までの、わずか5か月に満たない短期間の運動ではあったが、フォークゲリラ集会が、60年代末期の歴史に残した印象は、決して小さくない。
その記憶は、映画やレコードなど、多くの媒体の中に残されている(吉田拓郎率いる広島フォーク村の『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』にも収録された)。
バブル時代の1987年(昭和62年)、ギターを持った僕が、覚えたての「自衛隊に入ろう」や「腰まで泥まみれ」や「戦争の親玉」や「殺し屋のブルース」を歌ったとき、仲間たちは笑った(コミックソングだと思われたのだ)。
しかし、RCサクセションが『COVERS』(1988)を発表し、ザ・タイマーズ(1988~1989)が登場する頃には、反戦フォークは決してコミックソングではなくなっていた。
時代が回り始めていたのだ(中島みゆきが歌ったように)。
あれから、既に長い年月が経った。
69年の若者たちを熱狂させた古いフォークソングのレコードは、今も、我が家のクローゼットの奥深くで眠り続けている。
懐かして新しい時代がやってくるのを、ただじっと静かに待ち続けながら。