井伏鱒二の墓は、青山通りの持法寺にある。
今回、お墓巡りをした中で、最も都会にある墓が、意外にも井伏鱒二の墓だった。
「井伏家之墓」の隣に、本人自署による「井伏鱒二」の碑がある。
『尊魚堂主人─井伏さんを偲ぶ』を読むと切なくなる
筑摩書房『尊魚堂主人─井伏さんを偲ぶ』(2000)を読む。
『尊魚堂主人』は、井伏鱒二に捧げられた追悼文集である。
胸に込み上げてくるものがあって、読みながら切なくなった。
作家・井伏鱒二が永眠したのは、1993年(平成5年)7月10日のことである。
30年も昔に亡くなった人を偲ぶ文集に、どうしてここまで心を揺さぶられるのか。
井伏さんが亡くなった夜、親交のあった庄野潤三は、なかなか寝付けなかったという。
<庄野>井伏さんが亡くなられた知らせを聞いた晩に、弔問に家内と荻窪の自宅まで伺ったんですけど、それから家へ帰っても、寝つかれなくて、どうしようかなと。明くる日、朝、原稿を一つ書かなきゃいけないしと思ってたら、そうだ、こういう時、井伏さんの本を読めばいいんだと思ってね、
そして小学館から出た『群像日本の作家』という本があってね、口絵に井伏鱒二アルバムといって写真がいっぱい出てるの。それを本棚から取ってきて、それで井伏さんの写真を眺めて、井伏さんが、灰皿と湯飲だけ置いた机の前に座っておられる写真なんです。(小沼丹・庄野潤三「<対談>思い出すままに」)
それから、庄野さんは、井伏さんの「へんろう宿」という短篇小説を一つ読んで、ようやく気持ちが収まって眠ったという。
特別に敬愛する作家の死だったから、動揺もきっと激しかったことだろう。
庄野さんに限らず、当時の文学者の多くは、井伏鱒二の死に大きな衝撃を受けた。
河盛好藏は「山路こえて ひとりゆけど」という文章の中で、井伏鱒二の葬儀を振り返っている。
井伏さんのお葬式は思いがけなくキリスト教で行われたが、真白な百合と菊の花だけで飾られた祭壇の花に埋まった井伏さんのにこやかな遺影を見たときは、実に哀しかった。
式が終りに近づいて聖歌隊が四〇四番の送別の讃美歌を歌い出したとき、あの聞き慣れた「山路こえて、ひとりゆけど」の文句のところで、井伏さんが近頃とみに衰えた重い足を引きずり乍ら冥途の山路をとぼとぼとひとり歩いてゆく姿が彷彿として、あやうく号泣しそうになった。(河盛好藏「山路こえて ひとりゆけど」)
「あやうく号泣しそうになった」と書いてある。
そして、「あやうく号泣しそうになった」のは、きっと河盛さん一人ではなかっただろう。
おそらく、多くの関係者が、井伏さんの訃報に接して、心の中で号泣していたのではないか。
その号泣を形にしたものが、本書『尊魚堂主人─井伏さんを偲ぶ』という追悼文集だという感じがする。
青山通りの持法寺にある井伏鱒二の墓
井伏鱒二が亡くなって30年後の夏、僕は初めて青山通りにある持法寺というお寺を訪ねた。
不安定な夏の天気で、雨が降ったり止んだりする中、外苑前の駅から持法寺へと向かう。
井伏鱒二といえば『荻窪風土記』の著書があり、「阿佐ヶ谷会」という文士の集まりでも有名だったから、その人の墓が港区青山にあるというのは、少し意外な気がした。
都会の墓地へ入り、井伏鱒二の墓を探す。
先に、吉行淳之介の墓が見つかり、その奥の突き当りに「井伏家之墓」はあった。
隣に、井伏さん本人の自署による「井伏鱒二」の碑が並んでいる。
左端には「先祖代々」の墓。
1898年(明治31年)、広島県加茂村(現在の福山市)に生まれた井伏鱒二は、1993年(平成5年)、東京杉並区天沼にある東京衛生アドベンチスト病院で亡くなった。
享年95歳。
没後30年に当たる今年の春には、NHK BSにて1983年(昭和58年)のNHK特集『井伏鱒二の世界~荻窪風土記から~』が再放送された。
作家は亡くなっても、作品は読み継がれていく。
井伏さんのお墓に両手を合わせながら、作家の意義はそんなところにあるのかもしれない、と思った。
井伏さんの作品は、いつまでも読み継がれていかなくてはいけない。
そう思った。