村上春樹考察

【ノルウェイの森】直子とキズキはなぜ「あちら側」へ行ったのか? 死の連鎖と阿美寮のメタファー

【ノルウェイの森】直子とキズキはなぜ「あちら側」へ行ったのか? 死の連鎖と阿美寮のメタファー

『ノルウェイの森』を読み進める中で、多くの読者が抱く「重苦しさ」や「生理的な不快感」。その根底にあるのは、物語全体を覆っている「死の気配」だ。

なぜ直子とキズキは、若くして自ら命を絶たねばならなかったのか。

そして、二人が共有していた「あちら側の世界」とは何だったのか。

親記事で触れた「死は生の一部である」という視点を、さらに深く考察していく。

親記事:『ノルウェイの森』はなぜ「気持ち悪い」と言われるのか?不快感の正体と、その先にある救いの考察

『ノルウェイの森』はなぜ「気持ち悪い」と言われるのか?不快感の正体と、その先にある救いの考察
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17歳で止まった時計:キズキが遺した「死の空気」

キズキの自殺が残したもの

物語のすべての起点となり、ワタナベと直子の運命を決定づけているのは、親友・キズキの唐突な自殺だ。

17歳という若さの頂点で、なぜか突然に死んでしまったキズキ(その理由はどこにも明かされていない)。

彼は、ワタナベと直子という「生き残った者たち」の中に、「死という消えない記憶」を残していった。

死を抱えたままで生きていく直子

直子にとってキズキは単なる恋人ではなかった。彼は、直子の一部である。

キズキが「あちら側(死の世界)」へ行ったときから、直子の中に「死」が共存し始める。

これが、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」ということだ。

直子は、キズキの死を自分の中に抱えたままで、生き続けていかなくてはならない。

そこに、死者の記憶(つまり「喪失感」)を抱えながら生きていくことの苦悩がある。

阿美寮(あみりょう)という「緩やかな死」の聖域

直子が身を寄せた京都の山奥にある「阿美寮」。そこは一見、精神の平穏を取り戻すための理想郷のように描かれている。しかし、それは「生と死の境界線」でもあった。

トーマス・マン『魔の山』が意味するもの

「阿美寮」へ直子を見舞ったとき、ワタナベは、トーマス・マンの『魔の山』という小説を持っていく。

『魔の山』は、主人公の青年(カストルプ)が、山奥のサナトリウム(結核療養所)に入院しているいとこ(ツィームセン)を見舞いにいく物語である。

山奥のサナトリウムは「生と死の境界線」であり、京都の阿美寮もまた「こちら側の世界」と「あちら側の世界」を繋ぐ境界線だった。

『魔の山』を読むと、『ノルウェイの森』の世界観を、より深く理解することができるはずだ。

▶ トーマス・マン『魔の山』は、別記事で詳しく考察しています。

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レイコさんという巫女

「阿美寮」で直子と暮らすレイコさんは、「こちら側の世界」と「あちら側の世界」を繋ぐ「巫女」的な役割を担っている(村上春樹の小説では、こうした役割を果たす人物が頻繁に登場する)。

彼女もまた「生と死の境界線」で生きる女性だったのだ。

直子にとって阿美寮は「再生の場」ではなく、むしろ「死を内包したまま、緩やかに崩壊していくための待合室」だったと言える。

そして、ワタナベが感じる「違和感」や「居心地の悪さ」は、彼がまだ「生きている」ことを、強く示唆していたのだ。

なぜワタナベの愛は直子を救えなかったのか

二十歳の誕生日を迎えた直子を抱いて、ワタナベは直子から離れられなくなっていく。しかし、彼には直子を救うことはできなかった。

キズキとともに死んだ直子

ワタナベは間違いなく真剣に直子を愛していた。彼は、彼女を「こちらの世界」へ連れ戻すべく努力をする。

しかし、直子が求めていたのは「ワタナベと生きていく未来」ではなく、キズキとともに「死の世界で生きる」ことだった。

ワタナベとセックスをした夜に、直子が感じた絶望。それは、肉体という「生の象徴」を通じてさえも、心の欠落が埋まらない自分に、彼女自身が気付いてしまったからなのだ。

ワタナベとキズキと直子という三角関係

生きることによってさえ埋めることのできない喪失感。

親記事で考察しているとおり、「気持ち悪い」とまで言われるような直子の精神的な揺らぎは、「ワタナベとともに生きたいと願う祈り」と、「キズキという死者に引き寄せられる祈り」との、猛烈な摩擦音だったのかもしれない。

つまり、この小説は、ワタナベとキズキと直子との三角関係の物語でもあったのだ。

まとめ:死を引き受けて生きるということ

物語において、直子の死は、避けることのできない「必然」として描かれている。彼女は、最後まで「キズキのいない世界」に適応することができなかった。

しかし、残されたワタナベは「直子の死」という巨大な喪失感を抱えたまま、生き続けていかなくてはならない。

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在する」という言葉の真意は、「死者の記憶を背負いながらも、泥臭く人生を全うする」という覚悟にあったのではないだろうか。

次回は、直子と緑との間で揺れるワタナベの葛藤について、深く掘り下げてみたい

詳細:直子(過去)と緑(未来)の間で引き裂かれるワタナベの葛藤

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なお、『ノルウェイの森』の「気持ち悪さ」については、親記事で考察しているので、併せてご参照いただきたい。

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ジェン
文学考察ブログ『時空標本』管理人。物語の中に流れる時間を切り取り、言葉の標本として保存する。村上春樹、近代文学、そして古物を愛す。