庄野潤三「プールサイド小景」読了。
本作「プールサイド小景」は、1954年(昭和29年)12月『群像』に発表された短篇小説である。
この年、著者は33歳だった。
第32回芥川賞受賞。
謎の多い夫婦関係の脆さ
村上春樹は、「プールサイド小景」が好きだったらしい。
しかしそんなことは抜きにして、作品の空気がすうっと肌身に迫ってくるところがあります。とくに「プールサイド小景」なんか僕は大好きです。読み終えて本を閉じても、そこに描かれていたいろんな情景が、ぱっぱっと、色つき温度つきで頭に浮かび上がってくる。そんななまめかしい気持ちにさせてくれる短篇小説は、ほかにあまりないのです。(村上春樹「若い読者のための短編小説案内」)
村上春樹は、村上龍との対談の中でも「ぼくね、あえて好きだといえば、小島信夫、庄野潤三の初めのころありますよね、あのへんはわりに好きだった。何かの事情で学生のころ読んだんですよね。『アメリカンスクール』とか『プールサイド小景』、あれはね、ぼくはすごくおもしろかった。いまでもおもしろいと思いますし、時々読みかえしたりしますよ」と語っている(『村上龍VS村上春樹 ウォーク・ドント・ラン』)。
さらに、エッセイ集『やがて哀しき外国語』の中にも、「プールサイド小景」に対する言及がある。
庄野潤三の『プールサイド小景』『静物』や小島信夫の『アメリカン・スクール』は、学生時代に読んで深く印象に残った、僕にとっては数少ない日本の小説のひとつである。(村上春樹「さらばプリンストン」)
もちろん、「プールサイド小景」は、芥川賞受賞作ということで、庄野さんの代表作となっているし、未だに幅広い読者からの人気も根強い作品である。
庄野潤三の小説としては、テーマが明瞭で、筋書きも比較的分かりやすい。
一見平穏に見える家庭の中に潜む危機感。
その象徴として描かれているのが、二人の男の子(小学生)の父親である青木弘男だ。
物語は、高校のプールを借りて水泳の練習をしている父子のところへ、青木夫人が迎えに来る場面から始まる。
青木氏の家族が南京ハゼの木の陰に消えるのを見送ったコーチの先生は、何ということなく心を打たれた。(あれが本当に生活だな。生活らしい生活だな。夕食の前に、家族がプールで一泳ぎして帰ってゆくなんて……)(庄野潤三「プールサイド小景」)
誰からも幸せそうに見えた青木氏は、しかし、会社の金を使い込んだために、一週間前に会社をクビになったばかりだった。
周井からは分からない青木夫妻の不安と葛藤を掘り下げて描いたのが、本作「プールサイド小景」である。
角川文庫版「プールサイド小景」の解説で安岡章太郎は、ある暑い日に、庄野さんの勤め先である朝日放送の応接室で、庄野さんがこれから書こうとしている小説のプランを聴いたことを回想している。
庄野さんは、大阪の実家の近所にあるプールで、一人の体格の良い男が、二人の子どもたちと一緒に泳ぎに来ているのを見て、微笑ましい気持ちになったという。
ところが、実家に戻って、その話をしたところ、その男は、会社の金を使い込んでクビになった男で、近々家を売り払って立ち退くだろうと、近所の噂になっているということであった。
「どうだ、スゴイ話だろう。おれはこの話をきいて身の毛がよだつようだった」彼は僕に同意を求めるようにそう言った。「うん」僕はアイヅチを打ったものの、本当のところ彼が何でそんなに興奮しているのかわからなかった。話はどこにでもころがっているようなもので、一体どこに糸目をつけるのだろうと思った。(安岡章太郎「プールサイド小景」解説)
作品中で、水泳コーチが心を打たれる場面は、著者である庄野さん自身の体験だったらしい。
表面的には幸せそうに見える家族の、内側にある大きな不幸に、庄野さんのアンテナは敏感に反応したのだろう。
『会社員とは何者か?』(2012)の中で伊井直行は、安岡章太郎の解説を引用しながら、「会社員小説」としての「プールサイド小景」を考察している。
伊井直行は、「このわけもなしに不気味な場景は何だというのだろう?」という安岡章太郎の疑問に対するひとつの答えとして、柄谷行人の「夢の世界—島尾敏雄と庄野潤三」を引用した。
『プールサイド小景』の最後の場面では、一切の意味付けを剝奪された存在そのものの姿が露呈しているが、その場面は、庄野潤三が不気味な何かを描いたから不気味なのではなく、一切の意味付けが不可能な存在がそこにあるからこそ不気味なのだ、という考えである。
私は、小説の最後の『不気味な場景』が、会社員という存在の本質に向けて書かれた(と読むことが可能な)この小説の、『作品全体に呼応して』生まれたものであると考えたい。(伊井直行「会社員とは何者か?」)
プールで見た男の話を、庄野さんは、夫婦関係とサラリーマン生活という二つの軸から短編小説として構成した。
最も大きな柱は、もちろん、謎の多い夫婦関係の脆さである。
青木氏の妻は、青木氏が会社の金を使い込んで、美しい女のいるバーへ通いつめているということには、まったく気付かなかったという。
彼女はまことに迂闊だったことに気附く。夫が会社の金を使い込んで、それが分ってクビになった。その事実があまりにも大きな衝撃であったために、彼女はすっかり心を奪われてしまっていた。(女がいる。夫が大金を使い込んだのは、女のためだったのだ)(庄野潤三「プールサイド小景」)
長年一緒に暮らしていながら、気づくことのできなかった夫の秘密に触れたとき、妻は大きな不安を抱く。
メデューサの首。彼女はそれを覗き見ようとしてはならない。追求してはならない。そっと知らないふりをしていなければならないのだ。(庄野潤三「プールサイド小景」)
夫の退職という事件が明らかにしたのは、妻に隠し持った夫の秘密であり、彼らの生活が、あまりにも不安定なものであるという、当たり前の事実だった。
彼女は思うのだ。つい一週間前には、自分はどんなことを考えながら夕方の支度をしていたのだろうか。それはもうまるで思い出すことも出来ない。何時、どういうわけで、こういう変化が自分の上に生じたのだろうか。(庄野潤三「プールサイド小景」)
青木一家の生活が、実に不安定であったという事実は、彼がサラリーマンであったというところに、その要因を見出すことができる。
そうして、次に、庄野さんは、物語のもう一つの軸である、サラリーマンとしての青木氏を掘り下げていくのだ。
平穏な家庭生活を崩壊させたものは、平穏な家庭そのものだった
「プールサイド小景」は、夫婦小説であると同時に、サラリーマン小説でもある。
『わたしのベスト3 作家が選ぶ名著名作』の中で、佐伯一麦は、この物語について、「働けば豊かになるというサラリーマンの生活が実は幻影に突き動かされていることを、庄野氏は高度成長期前の昭和29年に予感として既に描いていた」と指摘している。
青木氏が会社をクビになった背景には、実は、サラリーマンというものの存在自体が、大きく関わっていた。
会社へ入って来る時の顔を見てごらん。晴れやかな、充足した顔をして入る人間は、それは幸福だ。その人間は祝福されていい。だが、大部分の者はそうではない。入口の戸を押し開けて室内に踏み込む時の、その表情だ。彼等は何に怯えているのだろう。(庄野潤三「プールサイド小景」)
怯えながら生きるサラリーマンの悲哀が、そこには描かれている。
なにしろ、無人の会社の椅子にさえ、青木氏は、寂しい会社員の姿を見ているのだ。
尻が丁度乗っかる部分のレザーは、その人間の五体から滲み出て、しみ込んだ油のようなものでピカピカ光っている。それはきっとその人間の憤怒とか焦だちとか、愚痴や泣き言や、または絶えざる怖れや不安が、彼の身体から長い間かかって絞り出した油のようなものなのだ。(庄野潤三「プールサイド小景」)
会社の椅子に、サラリーマンの身体から滲み出る油を見出す場面は、この「プールサイド小景」で一つのクライマックスになっている。
椅子だけではない。
青木氏は、会社の中のあらゆる物に、会社員の生活を感じては、虚しい気持ちを膨らませていくのだ。
誰もいない朝、僕は椅子や机や帽子かけやそこにぶら下がっているハンガーを見ていると、何となく胸の中がいっぱいになってしまうことがあった。それらは、ここに働いている人間の表象で、あまりにも多くの事を僕に物語るからだ。(庄野潤三「プールサイド小景」)
「椅子や机や帽子かけやそこにぶら下がっているハンガーを見ていると、何となく胸の中がいっぱいになってしまうことがあった」というフレーズには、チェーホフに傾倒していた庄野さんらしさを感じる。
青木氏が会社の金を使い込んでまで、美女のいる酒場へ通ったという、その根底にあるものは、会社員という存在が持つ「不安」だった。
それは、犯罪者の言い訳のように聴こえながらも、日本のサラリーマン社会が持つ、一種の真実をも浮き彫りにさせている。
彼等を怯えさせるものは、何だろう。それは個々の人間でもなく、また何か具体的な理由というものでもない。それは、彼等が家庭に戻って妻子の間に身を置いた休息の時にも、なお彼等を縛っているものなのだ。(庄野潤三「プールサイド小景」)
彼等が抱えている「不安」は、家族を支えて生きていかなければならないという、父性としての不安である。
夫であり、父親であることの不安から(一時的に)逃避するために、青木氏は、家庭外にいる女の元へ通いつめていたのだ。
そこには、サラリーマンにとって、本来、安らぎの場であるはずの家庭が、それ自体、大きな重荷となっているという、現代的パラドックスがある。
幸せを求めて、好きな女性と一緒になり、子どもを育ててきた家庭というものが、男に不安を与える存在となったとき、一体、男はどこへ逃げればいいのだろう?
そのパラドックスに気付いたとき、青木氏の妻もまた、大きな疑問を抱えることになる。
そうすると、いったい自分は夫にとってどういう存在なのかしら? 彼女の心には、そんな疑問がふと生じる。あたしたちは夫婦で、お互いに満足し、信頼し合っているとひとりで思い込んでいたのに、自分が夫の心を慰めるという点ではちっとも役に立っていなかったとしたら、あたしは何をしていたのだろうか。(庄野潤三「プールサイド小景」)
父性の不安に怯えながら生きるサラリーマンの苦悩。
平穏な家庭生活を崩壊させたものは、平穏な家庭そのものだったという皮肉。
その家庭的矛盾を、著者は、プールサイドで見つけた男の噂を素材として、「プールサイド小景」という短篇小説の中に描いてみせたのだろう。
この時期、庄野さんは、芥川賞候補の常連作家となっていた。
1953年(昭和28年)の前期から4回連続で芥川賞候補となり、4回目の「プールサイド小景」で、ようやく受賞を果たす。
この時期の作品は、いずれも、芥川賞候補作として恥ずかしくない名作が並ぶが、とりわけ「プールサイド小景」は完成度の高い作品だった。
小説としての完成度が高すぎて、むしろ、こじんまりと、まとまりすぎているとさえ言える。
選考委員の一人だった船橋聖一は、「前の「流木」や「黒い牧師」に見られた熱情には欠けるが、その代り玄人好みになっている」とコメントしているが、この「熱情に欠ける」ところが、「プールサイド小景」の完成度の高さを示すものであり、村上春樹が高く評価した要因となっているのではないだろうか。
夫婦関係の深淵を扱っているのに、ベタベタとしたところがなくて、同じく芥川賞選考委員だった井上靖も、「作品の蒸留水的な軽さが気になるが、併しこれは氏の作品の本質的なもので、むしろここに氏の本領があるというべきであろう」と評価している。
冒頭、プールの向こう側を緩やかに通過する通勤電車の中から、勤め帰りのサラリーマンたちが、水着姿の女子高生を眺めている場面から、物語は始まる。
そして、このイントロに呼応するように、エンディングでも、勤め帰りのサラリーマンを乗せた電車が登場してきて、物語は終わる。
ただし、そこに女子高生の姿はなくて、プールの底に沈んだごみを足の指で拾い上げているコーチの頭が、水面に一つ浮かんでいるのが見えるだけだ。
夫の帰りを待つ妻の不安を煽るかのように、このラストシーンは極めて印象的に仕上がっている。
あまりにも技巧的で、計算されすぎているというところに、「プールサイド小景」という作品を書いた作家の(つまり庄野潤三の)未来が見えていたのではないだろうか。
『若い読者のための短編小説案内』で村上春樹が指摘しているように、庄野潤三は、この「プールサイド小景」を一つの到達点として、新しい道を模索し始めていくことになる(後に、それが「静物」として結実した)。
作品名:プールサイド小景
著者:庄野潤三
初出:1954年(昭和29年)12月『群像』
書名:プールサイド小景・静物
発行:2002/05/25 改版
出版社:新潮文庫