読書体験

庄野潤三「浮き灯台」人間というちっぽけな存在

庄野潤三「浮き灯台」あらすじと感想と考察

ついていない、不運な男がいる。

妻子は病弱で、実家との折り合いも悪く、多額の借金を背負いながら、仕事もうまくいかない。

借金を背負った原因は実の兄で、そのために男は実の母親との関係までこじらせてしまった。

何をやってもついていない、そんな人生。

現実世界から逃避するように、男は海辺の漁村を訪れ、「小安ばあさん」の家に泊めてもらいながら、海の人間たちの話を聞く。

「私」が好んで聞いたのは、海で遭難した男たちの話だ。

海辺の漁村だから、難破船から死体が流れてくることも珍しくなかった。

「朝、船がしもてると云うので見に行ったら、船長がシャツ一枚にズボン下、メリヤスの上下着て、頭から血を出して死んでおった」

漂流した船員を救助した者もいれば、実際に自分が遭難しながら奇跡的に生還した者もいる。

難破船、遭難、漂流—死と隣り合わせで生きる海の男たちの話を、「私」はあちこちで聞いて回った。

もうひとつ、「私」が好んで聞いた話がある。

海で働く女たちの話だ。

「いそど」と呼ばれる漁村の「海女」たちは、「アマや人間やない」「こないせな食われんのかと思うやろなあ」「町に居る女子なら、身体磨いとりゃええのにねえ」などと冗談のように「私」に話して聞かせる。

しかし、都会を逃げて来た「私」もまた、死と隣り合わせで生きる男であり、「こないせな食われんのかと思うやろなあ」とでも言いたくなるような人生を生きていた。

「生の中にある死」と「死の中にある生」と

私は時々妻に云うのだが、「われわれはまあこの世に間借りしているようなもので、何もムキになることはない。いいことがあると云ったって夢かと思うようなことは起らないし、悪くなると云ったところで滅茶苦茶に悪くなることもまあないだろう。これから先のことは分らないが、大体今までに経験して来たことと大同小異というところになるのではないか」というのが私の考えである。(「浮き灯台」)

男は運に恵まれない人間で、「家の運というものがあれば、私は家の運に恵まれていなかった」が、人生をあるがままに受け入れようとする。

それは、海で生きる男たちや、海で暮らす女たちが、自らの運命を見えない何かに託している姿と、どこかで似ているようにも思われるし、「生の中にある死」と「死の中にある生」とが、不思議なバランスを保ちながら、人の運命の上に漂っているように見えないこともない。

男が生きる都会もまた、死と隣り合わせで生きる、大きな海のようなものだとしたら、男はそんな海に浮かんでは沈みかける「浮き灯台」のような存在だ。

「浮き灯台」のように頼りない存在

いちばん高いところにある硝子の中で、白色の光りが点滅しているのが見えた。操舵室にいる息子さんが私の方を振り返った。私はどうぞやって下さいという合図に手を振った。浮き灯台は傾いて沈み、傾いたままゆっくりと浮び上り、いつまでも私の視界の中でその動作を繰返しているように見えた。(「浮き灯台」)

「私」が見た、傾いたままで浮いたり沈んだりしている「浮き灯台」は、言うまでもなく、不運に振り回されながら生きる「私」自身の姿である。

本書は、男が生きる都会の風景と海辺の漁村の姿を交互に描くことで、不安定な人生に漂いながらも懸命に生きる、人間の生き様をあぶり出そうとしており、一見、何気ないエピソードをいくつも挟み込むことで、男の存在が海上に漂う「浮き灯台」のように頼りない存在であることを、暗に示唆している。

海の上に浮かべてみた時に初めて、人間がいかに小さな存在であるかということを、我々は知るのだ。

書名:浮き灯台
著者:庄野潤三
発行:1961/9/21
出版社:新潮社

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。