庄野潤三「早春」読了。
本作「早春」は、1982年(昭和57年)1月に中央公論社から刊行された長篇小説である。
この年、著者は61歳だった。
初出は、1980年(昭和55年)6月~1981年(昭和56年)9月『海』(連載)。
戦争に翻弄された青春
庄野潤三『ピアノの音』(1997)に『早春』が登場している。
妻は家から持って来た『早春』(中央公論社)を窓ぎわの椅子で読む。神戸の街なかにお祖父さんの代から住んでいる学校友達と会って旧交をあたためる話。(庄野潤三「ピアノの音」)
「神戸の街なかにお祖父さんの代から住んでいる学校友達」とあるのは、本作の主人公(太地一郎)である。
いまから四十年近い昔、大阪外語の英語部で同じクラスにいた神戸の太地一郎が予備学生として海軍へ入ることになった時、贈ってくれた本である。(庄野潤三「早春」)
物語の舞台は、1980年(昭和55年)の神戸。
「来年はえらいこってすぜ、神戸は。博覧会で」という叔父に、それは何博覧会というのですかといささか間延びした質問をすると、ポートアイランド博覧会。(略)案内所の娘さんが、「また来年どうぞいらして下さい」と渡してくれたのは、ポートピア ’81のパンフレット四枚。(庄野潤三「早春」)
「ポートピア’81」の開会に向けた神戸の高揚感が、この物語の背景となっている。
この年、庄野さんは59歳。
今年の正月に届いた太地の暫くぶりの葉書には、去年の秋、新聞社を定年で退職したという知らせのあとに、昔、教室で読んだガーディナーのフェロー・トラヴェラーやドーバーの白いヒースの花がしきりに心に浮んで来るという意味のことが書かれてあった。(庄野潤三「早春」)
つまり、この作品は、人生の節目を迎えた二人の男性が、学生時代を懐かしみながら旧交を温める、そんな再会の物語なのだ。
主人公(太地一郎)と庄野さんが再会したのは、1980年(昭和55年)2月25日午後5時、大阪グランドホテルである。
私たちは向い合って椅子に腰をおろした。濃いグレイに細い縞の入った背広に身を包んだ太地は、学校にいた時分と少しも変らない顔だちで、きちんと分けた髪の、もみあげのあたりに僅かに白いものが見えた。(庄野潤三「早春」)
「二月になると空が明るくなるね」と、太地は言った。
「いま頃の気候がいちばん好きだな」ええ、私たちもそうなんですと妻はいったが、着ていたコートは薄いし、マフラーもしていないところを見ると、太地は私たち夫婦のような寒がりではなさそうだ。(庄野潤三「早春」)
「いま頃の気候」である「早春」は、二人の旧友の再会を象徴する言葉だ。
あるいは、それは、「第二の人生」を歩き始めたばかりの男たちの人生を象徴する言葉だったかもしれない。
それをぱらぱらと開けて読んでいると、「早春」というのが出て来た。僕はいまでも覚えているけど、野は褐色と淡い紫、田圃の上の空気はかすかに微温い、というのが最初の出だし。あれが僕は好きだった。「まさに淡い紫です。あの頃がいちばんいいな」(庄野潤三「早春」)
「早春」は、伊東静雄の詩集『夏花』(1940)に収録された詩の作品名である。
太地は、庄野さんからもらったこの詩集で、「早春」という作品を読んでいた。
それで思い出したけど、僕はあなたから伊東静雄の詩集を貰っているんだといった。それは覚えていないというと、「あなたが僕の差上げた本を持っているのと同じようにね。『夏花』という詩集」(庄野潤三「早春」)
詩集には「昭和十六年十二月八日」の日付が記載されていた(つまり開戦記念日)。
それは、彼らの青春が、太平洋戦争に翻弄されたものであったことを暗示している。
「あなたが僕の差上げた本を持っている」とあるのは、この作品の冒頭に出てくる竹久夢二『小夜曲』(1915)のことだ。
奥附のうしろの頁に日附と私の名前(君が附いている)と彼の署名が入っている。その日附は、──昭和十六年十二月二日。つまり、日本海軍が南西太平洋で米英両国を相手に戦闘状態に入ったあの十二月八日まであと六日しかない。(庄野潤三「早春」)
戦争が始まると、級友たちはあっという間にバラバラになった(「戦争のどさくさで散りぢりになり」)。
この物語を支えているのは、戦争によって引き裂かれた学生たちの旧い友情である。
「いや、今日はあなたにお目にかかるので、これを」といいながら鞄の中から取り出したのは、八年ばかり前に年少の読者を対象として出版された私の本であった。逆立ちした弟の足を兄が両方の手で支えてやっている絵が表紙に描かれている。「これが僕は好きでね。何回も読んでいるんだ。あなたに書名して貰おうと思って持って来たんだ」(庄野潤三「早春」)
「八年ばかり前に年少の読者を対象として出版された私の本」は、岩波少年少女の本『明夫と良二』(1972)である。
この旧友が、学生時代の仲間の作品を愛読していたことが分かる。
突然ばらばらになった仲間たちの思い出や、戦争中の体験談。
二人は若かった当時を思い出しながら、古い記憶を共有する。
次に二人は3月30日、神戸大丸デパートの南、明海ビル八階「東明閣」で、北京料理を一緒に食べる。
居留地跡の一画を占める明海ビルは古びた、貫禄のある建物であった。エレベーターの八階でおりると、そこが東明閣。すぐ前のロビイの椅子にいた太地が立ち上って迎えてくれた。(庄野潤三「早春」)
北京料理を食べながら、二人の男たちは、再び思い出話に花を咲かせる。
このあと、クイラークーチへと話は移る。二月に中之島のホテルで会った時に話がちょっと出たが、外語の頃から太地が関心を持ち続けている英国の詩人、古典文学者である。(庄野潤三「早春」)
クイラークーチから外語の教室での授業の思い出へと移る。
一年の時に上田さんの最初の授業で習ったフェロー・トラヴェラーは面白かったな、僕はエッセイというのはああいうものだと思うねと太地はいい、こちらもそれに賛成したのだが、もう一つ印象に残っているのはドーバーのヒースと彼がいったのはよく分らない。(庄野潤三「早春」)
ガーディナー「フェロー・トラヴェラー」は、庄野潤三の短篇「相客」でもよく知られている作品だ。
「ドーバーのヒース」も、同じくガーディナーのエッセイらしいが、当時の教科書も既にない。
あなたにひとつお尋ねしたいと、本を鞄に仕舞った太地が改まった口調でいい出すから、何かと思ったら、僕らの卒業式はあった? あったよ、クリスマス過ぎに。おれ、行ってない。だから卒業免状がないんだよ。(庄野潤三「早春」)
ここにも、戦争に翻弄された大学生活がある。
そして、日本の戦後を支えたのは、まさしく太地のように戦争で生き残った若者たちだったのだろう(彼らの子どもたちが「団塊の世代」と呼ばれることになる)。
6月の神戸でも、彼らは顔を合わせる(生田神社の近くの「錨屋」の鉄板焼き)。
それに僕は、うちの者にいわすとそうなんだけど、同じとこへ行くね。絶対にここはよさそうだから入ろうということは無い。これ、うまいというんだな。ここ、うまいから入ろうというと、いや、止めとこうというんだな。やっぱり気に入らないんだ。(庄野潤三「早春」)
「或る意味では英国式だね」と言った太地のライフスタイルは、イギリス文学を学んだ者には理解できるものだったのだろうか(「何だか自分でもちょっと哀れだなと思うことがあるけど、変えようとはしない。一生このままで終るんだろうなという気持がある」)。
あるいは、それは、戦争を生きた世代の矜持だったかもしれない(「まあ僕らの世代というのは或る程度、頑固なところがあって、明治の人間ほどではないにしてもね」)。
実はこの前、錨屋でお話をしているうちに記憶の彼方に沈んでいた詩集の名の一、二が浮び上り、無性に懐かしく、早速、センター街の後藤書店で出かけて棚を探しましたが、どれも見つけることが出来ませんでした。(略)青春は遠くなりにけりということでしょう。(庄野潤三「早春」)
二人が最後に顔を合わせるのは、12月2日の「竹葉亭」だ(うなぎ料理)。
太地と一緒に神戸遊覧を楽しんだ庄野さんは、翌日、三宮で暮らす叔父の家へと太地を案内する。
地元民が語る神戸の歴史物語
本作『早春』で、太地一郎とともに、もう一人の主人公となっているのが、芦屋に住む叔父夫婦である。
三年ほど前、昔の大阪の街なかの商家の日常生活を中心とした「水の都」という小説を書いた時、この叔父が随分力になってくれた。(庄野潤三「早春」)
つまり、本作『早春』は、『水の都』(1978)とは兄弟のような作品と言っていい(大阪篇の『水の都』と、神戸篇の『早春』)。
外語時代の旧友(太地一郎)と、父親世代とも言うべき叔父の思い出話が、『早春』の二本柱となっている。
阪急の芦屋川でおりると、駅前の通りの、髷を結ったばあさんのいる和菓子屋で桜餅とうぐいす餅と饅頭を箱に入れて貰った。少し先の酒屋で葡萄酒を買い、一緒にさげて歩いて行くうちに、向うからエプロンを着けた叔母が急ぎ足でやって来た。(庄野潤三「早春」)
叔父の話は、太地や庄野さんたちが生まれる前の時代から始まる。
「小学校のちょうど四年になる時に初めて大阪から須磨へ移ったんです。そいで須磨の小学校へ入ったんですわ」それは明治三十七年、日露戦争の始まった年である。(庄野潤三「早春」)
当時の子どもたちは、尋常小学校を四年で卒業すると、神戸や大阪へ奉公に出された。
同級生といっても二十四、五人。村の子はたいがい尋常四年で終って、漁師したり百姓したり、神戸や大阪へ奉公に出される。友江という友達がいたが、京都の呉服屋へ行った。(庄野潤三「早春」)
芦屋の叔父の話は、この物語に深みを与えてくれる。
同級生との懐かしい思い出物語を、さらに立体的なものへと膨らませてくれる。
叔父が神戸一中(入学当時は神戸中学)を卒業して、その頃は九月に行われた三高の入学試験に合格しながら、家業を継ぐために進学を諦め、錦小路の乾物屋に奉公したという話は、「水の都」を書く時に聞かせて貰った。(庄野潤三「早春」)
叔父の思い出話は、そのまま神戸の歴史物語になっている。
いまは何という名前になっているんですか。神戸高校いいます。その西灘のフォームに入る前に、ここに関西学院があったんですと叔父。あ、ここにあったんですか。ええ、神戸高商がその真上に。(庄野潤三「早春」)
この作品の大きな特徴は、会話文が、地の文の中に溶け込んでいることだろう。
洗練された聞き書き小説の完成形が、ここにはある(庄野さんの聞き書き小説の長編は『早春』が最後。短篇では「葦切り」がある)。
三宮駅のそばまで来ると、叔父はガード下の一軒の店を指して、ここの鰻、おいしいです。こんな汚ないとこですけど、ここのはうまいんです。古いんですか。古いでっせ。戦前からやっとります。(庄野潤三「早春」)
神戸の歴史と対比するように、変わりつつある現代の神戸が描かれる。
再び郭さんの車に乗って、クラブの外に出た。先にポートアイランドを見て、それから六甲行きましょうと郭さん。雨はかなり降っている。大橋を渡ると、いちばんに建設中のホテルが見える。神戸ポートピアホテル。「煙突みたいなビルやね」とジェーンさんがいう。(庄野潤三「早春」)
米国オハイオ州のケニオン・カレッジにいるウエバーさんの紹介で知り合った郭ジェーンさんの登場も、この物語に変化を付けている。
ウエバー邦子さんは『ガンビアの春』に登場するから、『早春』の背景のひとつにガンビア物語があると言ってもいい(こうしてつながっていくところも庄野文学の特徴)。
さらに、太地・叔父・郭ジェーンという三人の話を、庄野貞一『十八ケ国欧米の旅』のような書籍からの引用が、うまく繋ぎ合わせてくれる(庄野さんのお父さんの著作)。
ひとつの「神戸クロニクル」と言っていい膨らみが、この物語にはある。
さらに、庄野文学の読者に花を添えているのが、庄野家の歴史だ。
私が小学校の生徒としてコロニー生活を経験したのは五年と六年の僅かに年間であったが、卒業して中学へ入ってからも夏休みによく泊りがけで行った。外語にいる時も行った。(庄野潤三「早春」)
帝塚山学院「仁川コロニー」の思い出は、亡くなった長兄(庄野鷗一)の思い出へとつながっていく。
新幹線で神戸まで行くのは初めてだなといったら、智ちゃんの結婚式の時に来ましたと妻がいう。ああ、そうだったか。ええ、あの時、新神戸でおりて、タクシーでオリエンタルホテルへ行ったんです。(庄野潤三「早春」)
「智ちゃん」とあるのは、長兄の次女(庄野育子)のことで、長篇『野鴨』(1973)にも「智子」として登場している。
『野鴨』は、長兄(庄野鷗一)の長女(民子)の結婚式の話から始まるから、本作『早春』には、『野鴨』の続編という機能も果たしている(「あの時は午前中に式が六甲の教会であり、披露宴はオリエンタルホテルで行われた」)。
叔父が話す息子の消息も、庄野夫妻には懐かしい思い出へとつながっていく。
叔父夫婦の一粒種であるこの息子さんは、終戦の翌年の一月に私たちが結婚した時はまだ小さかった。妻は疎開先の岡山の伯父の家から正月明けに母親と二人で出て来て、式の日まで芦屋の叔父のところにいた。(庄野潤三「早春」)
独身時代の庄野夫人は、軍需工場で働いていた。
「家内なんかも日の丸の鉢巻を締めて工場へ行っていた口なんだ」と私がいうと、何を作っていたんですかと太地。魚雷艇の調整器の目盛を作っていました。どこで? 大阪の今里の小さな町工場です。(庄野潤三「早春」)
神戸港では、博覧会の準備に向けたコンテナ業務が始まっている。
コンテナを積み上げてあるところへ来る。大阪商船三井船舶(それは結婚前に長女が勤めていた会社なので、私たちには嬉しい名前だ)、ジャパン・ライン、N・Y・Kなどの名前が見える。(庄野潤三「早春」)
その長女も、今では南足柄市の人だ。
このあと、それぞれお子さんはと太地が尋ね、こちらは近くにいた長女の家族がつい先日、小田原の方へ引越したことや去年の秋に結婚した長男のことなどを話した。(庄野潤三「早春」)
庄野家の長女(夏子)が、「小田原の方」(南足柄市)へ引っ越したのは、1980年(昭和55年)3月のこと。
この当時の様子は『インド綿の服』(1988)に詳しい。
すべての作品の中に、庄野潤三という作家の人生がある。
というか、庄野潤三の人生こそが、庄野文学そのものだったということなのかもしれない。
「早くたちますなあ、時間が」と叔父がいえば、ほんとに早いわと叔母も妻も声を揃える。でも、七十年も前のところをこんなにして一緒に遊べるなんて、こんな仕合せなことありませんと叔母。(庄野潤三「早春」)
長い時間を生きてきた者の驚きが、そこにはある。
そして、歴史は止まることなく、そこからさらに長い時間が流れた。
この物語の主要な登場人物は、この神戸の友人も、芦屋の妻の叔父夫婦も、三人ともその後、亡くなってこの世にはいない。残ったのは、作者である私と、私と連れ立って神戸の街を歩いたり、叔父夫婦の家を訪問した妻の二人きりとなった。(庄野潤三「ピアノの音」)
残ったのは、『早春』という素晴らしい青春小説である。
長い時間を生きた男たちが語る、それぞれの青春物語。
神戸という街の歴史の中に、彼らの青春はあった。
有名人でしたなあ、太地さんいうのは、私らもよくお名前を聞きましたと叔父がいったので、驚いた。叔父さん、御存知だったんですか。へえ、なかなか有名人でね、神戸の古い人やったら知らん人ないでしょう、太地さんいうたら。(庄野潤三「早春」)
「太地一郎」のモデルが「佐伯太郎」であることは、随筆「大倉山公園の図書館」などに綴られている(『ぎぼしの花』所収)。
神戸の下山手通八丁目にお祖父さんの代から住んでいる友人の佐伯太郎がいる。近くの大倉山公園に市立中央図書館があり、よく利用しているらしい。(庄野潤三「大倉山公園の図書館」)
長編小説の理解を促すためにも、庄野さんの随筆は重要だ。
本作『早春』は、サラリーマン生活に区切りをつけて、これから「第二の人生」を始めようという男たちには、なかなか切ない青春小説である。
誰にも青春時代というものがあり、それぞれの青春物語があったということを、この作品は思い出させてくれるから。
書名:早春
著者:庄野潤三
発行:1982/01/20
出版社:中央公論社