1980年代、村上春樹は「都会的な作家」だと言われた。
あるいは「都会小説の書き手」と呼ぶ人もあった。
若者に人気の、都会派小説の作家。
それが、デビュー当時の村上春樹という作家のイメージだったのではないだろうか。
『週刊現代』1980年(昭和55年)7月3日号は、グラフ特集として「若者の合言葉 村上春樹読んだ?」というインタビュー記事を掲載している。
「村上春樹読んだ?」という会話が「若者たちの合言葉」だった時代。
若者たちから圧倒的な支持を得た「都会小説の書き手」とは、何だったのだろうか?
当時のインタビュー記事から、世の中が抱いていた「村上春樹像」を読み解いてみたい。
「村上春樹読んだ?」が若者たちの合言葉だった
サングラスをかけて、芝生に腰掛ける一人の男性。
ボーダーのポロシャツに、ジーンズとスニーカー。
眉間にしわを寄せた、この男こそ、若者たちの間で「村上春樹読んだ?」と話題になっている作家その人である。
この年、村上春樹は31歳。
前年(1979年)、『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞して、作家としてデビュー。
この年(1980年)3月、『群像』に2作目の長編『1973年のピンボール』を発表し、6月に単行本が刊行されたばかりだった。
当時は短篇小説の仕事もほとんどなく、4月『海』に初めての短編「中国行きのスロウ・ボート」を発表したほかは、『happy end通信』に「アメリカン・ホラーの代表選手――スティフン・キングを読む」を、『キネマ旬報』に「親子間のジェネレーション・ギャップは危険なテーマ」といったソフトなエッセイを発表したくらい(いずれも3月)。
なにしろ、その頃の村上春樹には、ジャズ喫茶「ピーター・キャット」のオーナーという「本業」があった(小説家は副業だった)。
「二股かけるのはいけないんじゃないかって言う人もいるけど、僕はそうは思わない。経済的自立のないところに精神的自立はありえないですよ。生意気な言い方だとは思うんだけど、生活や金のために書いているわけじゃない」(『週刊現代』1980年(昭和55年)7月3日号「若者の合言葉 村上春樹読んだ?」)
現代では分かりにくいかもしれないが、デビュー当時の村上春樹には「生意気」という言葉が、常に付きまとっていた。
「既成社会に反発する男」としてのイメージ形成は、『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』の主人公と作者自身とを重ね合わせて考える読者が増えた背景ともなっていたのだろう。
「僕は小説や翻訳以外の書く仕事はできるだけ少なくしたいし、でもそれじゃ生活することはむずかしい。たしかに仕事を二つやってるのは体もキツイし時間もないですよ。しかし、それだけのことはあると思いますね。それにね、肉体労働と頭脳労働を交互にやるのはとてもいいですよ」(『週刊現代』1980年(昭和55年)7月3日号「若者の合言葉 村上春樹読んだ?」)
デビュー当時、執筆の仕事が少なかったのは、「本業」との兼業が難しかったためだ。
この年(1980年)9月『文學界』に、村上春樹は中篇「街と、その不確かな壁」を発表するが、結局、自分自身でも満足することのできない中途半端な作品に終わってしまった。
「街と、その不確かな壁」は単行本等に収録されることもなく抹殺され、1985年(昭和60年)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という長編作品を発表することで、作家はようやくリベンジを果たした。
2023年(令和5年)には、さらに『街とその不確かな壁』という作品を発表していることを考えると、「街と、その不確かな壁」での失敗は、作家・村上春樹にとって大きなトラウマとなったらしい。
結局のところ、「鼠三部作」の完結編『羊をめぐる冒険』を書くために、村上春樹は「ピーター・キャット」を手放さなければならなかったからだ。
そして、作家・村上春樹にとって、これが大きな転機となったことは、後々まで作家本人が語っているとおりである。
『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』の主人公と同じように、作者(村上春樹)はとてもクールだ。
(処女作『風の歌を聴け』について)「マイルス・デイビスが「自分のレコードは絶対に聴かない」と言ったけど、その気持ちわかるな。書き終わった作品のことはあまり考えたくないです。形容が悪いけど、脱ぎ捨てた下着みたいなものかな。まあ、なんとか早くうまくなって水準に達した小説を書きたい、それだけです」(『週刊現代』1980年(昭和55年)7月3日号「若者の合言葉 村上春樹読んだ?」)
「なんとか早くうまくなって水準に達した小説を書きたい」というあたりに、新人作家の焦りを感じる。
もしかすると、『ノルウェイの森』(1987)に登場する先輩(永沢さん)は、村上春樹自身だったのではないだろうか。
「でもね、俺は空を見上げて果物が落ちてくるのを待ってるわけじゃないぜ。俺は俺なりにずいぶん努力をしている。お前の十倍くらい努力してる」「そうでしょうね」と僕は認めた。(村上春樹「ノルウェイの森」)
ジャズ喫茶と作家とを兼業することも、作家として成功することにも、並大抵の努力では実現することができなかっただろう。
「だから、ときどき俺は世間を見まわして本当にうんざりするんだ。どうしてこいつらは努力というものをしないんだろう、努力もせずに不平ばかり言うんだろうってね」(村上春樹「ノルウェイの森」)
傲慢な永沢さんのセリフは、現代社会に向けられた作者からのメッセージだ(読者が、そのことに気がついたか否かは別として)。
1980年(昭和55年)のインタビューには、将来の「永沢さん」の登場を示唆する予兆がある。
(日課は)「働く、読む、書く、眠る、これだけです。賭けごとをやるわけじゃなし、飲みに行くことも少ないし、人みしりしちゃうもので交際範囲も狭いし、なにしろスーパー・スクエアな生活ですよ」(『週刊現代』1980年(昭和55年)7月3日号「若者の合言葉 村上春樹読んだ?」)
村上春樹は、決して「カッコイイ」だけの作家ではなかった。
同調圧力に屈することなく、自分の生き方を貫く登場人物たちの姿にこそ、若者たちは憧れたのではなかっただろうか。
現状への不安を抱えた孤独な現代人を描く
村上春樹の言葉には、読者に媚びるものがない。
売れたくないはずはないのに、「売れたい」という自己顕示欲が出てこない。
「現在は家賃五万五千円の木造アパートに住んでいます。別にこれといった不自由は感じないですね。本が多いせいで床がかしいでいるけど、まあ気楽でいいですよ。でも、近いうちに取り壊されるらしいんで、どうしようかな……」(『週刊現代』1980年(昭和55年)7月3日号「若者の合言葉 村上春樹読んだ?」)
インタビュー記事の隅には、本棚に囲まれたベッドに座っている村上春樹の写真が掲載されている(シャム猫を抱いている)。
おそらくは希少な「家賃五万五千円の木造アパート」時代の写真だ。
残念ながら、蔵書はよく見えないが、手前に『夢野久作全集』がある。
執筆の作業場となる書斎も、畳の上に細長いテーブルを置いただけの空間のように見える(ヘッドホンで音楽を聴きながら仕事をしている村上春樹の写真)。
(文学修行について)「一生懸命働くこと、あびるほど本を読むこと、文章を一切書かぬこと。二十代の十年間、それだけを心がけてきました。同じやり方が他の人にも通用するかどうかは疑問ですけどね。とにかく自分の気持ちを無暗に書き汚しちゃうってのはいけないんじゃないかな。ある時期には沈黙というものがいちばん雄弁だと思います」(『週刊現代』1980年(昭和55年)7月3日号「若者の合言葉 村上春樹読んだ?」)
「ある時期には沈黙というものがいちばん雄弁だと思います」──ここにも予言らしき言葉が、姿を現している。
村上春樹が、短篇「沈黙」を発表するのは、1991年(平成3年)『村上春樹全作品 1979〜1989(第5巻)』。
学生時代の「いじめ体験」を扱った、この小説について、加藤典洋は「村上春樹の中で一番どん底で書かれた短編」と評している。
この作品が、集団読書運動に使われ、クラスからいじめをなくそうという話し合いに使われるとしたら、とんだ皮肉というか、ブラックユーモアでしょう。なぜなら、この小説は、こういう「集団読書運動」のときに、姿を見せない、そんな「集団」から排除された男の子を描いた作品だからです。(加藤典洋「村上春樹の短編から何が見えるか」)
『ノルウェイの森』のベストセラー化によって、一躍「時の人」となった村上春樹は、自分の居場所を見失ってしまう。
居場所のない気持ちを反映した作品が「沈黙」という作品だったのだろうと、この文芸評論家は読み解いたのだ。
『ノルウェイの森』は、ある意味で「大衆批判」の小説である。
その『ノルウェイの森』が多くの大衆に支持されたというパラドックスに、作者は困惑したのかもしれない。
このとき、村上春樹は「ある時期には沈黙というものがいちばん雄弁だ」という、かつての言葉を実践していたのではないだろうか。
「沈黙」に限らず、村上春樹の多くの小説では「孤独な人々」が描かれている。
村上春樹の小説の読者は、こうした「孤独な人々」に共感する若者たちだ。
そして、彼らは、現状に満足できない「もやもや感」を、常に抱え込んでいる。
現状への不安を抱えた孤独な現代人を描くとき、それは、都市生活者に象徴されることになった。
村上春樹の都会小説は、都会を表面的に描いた物語というだけの意味ではない。
多くの都市生活者が抱える不安を描いたからこそ、村上春樹は「都会派小説の作家」と呼ばれることになったのだ。
「よく都会小説って言われるけどどうかな? でもそれは読む人の勝手なわけで、どうのこうの僕が言う筋合いもないんですよね。読んで楽しんでもらえたとしたら僕はとても嬉しい。たしかにレッテルを貼られるのには抵抗があるけど、どうせ人はみな変わっていくわけだから」(『週刊現代』1980年(昭和55年)7月3日号「若者の合言葉 村上春樹読んだ?」)
もちろん、現状への不安や孤独を抱えているのは、都市生活者だけに限らない。
現代社会を生きる多くの人々が、現状不安や孤独を感じているとき、村上春樹の小説は普遍的な文学作品となる。
結局のところ、不安や孤独といったテーゼは、極めて個人的な問題として帰結する以外にない。
「デタッチメントの作家」と言われた村上春樹は、不安や孤独といったモチーフを通じて、若者たちの心へ巧みにコミットしていたのだ(つまり寄り添っていた)。
「仕事柄、二十歳前後の人たちとのつきあいが多いけど、僕はジェネレーション・ギャップといったものは、それほど感じないですね。同世代と一緒に居る方が疲れたりしてね。自分たちの内包している偽善性に気づかぬ限り、僕たちの世代に救いはない」(『週刊現代』1980年(昭和55年)7月3日号「若者の合言葉 村上春樹読んだ?」)
村上春樹は「団塊の世代」の代表選手でありながら、常に、同世代の人々を批判してきた。
同世代の人々への批判は、現代社会への批判でもあり、自己批判でもある。
自分にも他人にも厳しいストイックな生き方は、ぬるま湯につかって生きる若者たちに、大きな刺激となったのではないだろうか。
とにかく、1980年(昭和50年)の村上春樹は尖っている。
ジャズ喫茶経営と作家業とを両立する大人としての矜持が、そこにはあったのかもしれない。