『ノルウェイの森』を読み終えた読者の多くが、最大級の困惑、あるいは「気持ち悪さ」を抱くシーンがある。
それは、物語の終盤、阿美寮を出たレイコさんとワタナベが交わす「4回のセックス」だ。
なぜ、直子の死の直後に、彼女の親友でもある年上のレイコさんとセックスをする必要があったのか。
そして、ラストシーンでワタナベが発した「僕は今どこにいるのだ?」という問いの意味とは。
本作の結末に隠された「再生の儀式」を独自の視点で読み解いていく。
▶ 親記事:『ノルウェイの森』はなぜ「気持ち悪い」と言われるのか?不快感の正体と、その先にある救いの考察
レイコさんとの一夜:性愛を超えた「葬儀」という名の儀式
直子の死後、レイコさんは阿美寮を離れ、ワタナベの元を訪れる。
二人が交わしたのは、通常の性愛では説明することのできない、象徴的としての「セックス」だった。
「直子の化身」としてのレイコさん
別記事で考察しているように、直子は「死の世界(あちら側)」へと旅立っていく。
▶ 詳細:直子とキズキはなぜ死んだのか? 阿美寮のメタファーを解く
直子と最も近い存在であり、彼女の最期を看取ったレイコさんは、いわば「死者の代理人」とだ。
そして、死んだ直子の服を着たレイコさんは「直子の化身」であるとも言える。
「死者の肉体」を送り出すプロセス
なぜ、レイコさんは、ワタナベ君と寝たのか?
レイコさんは、異界と現世とを行き来する「巫女」の役割を担っている。
つまり、レイコさんとのセックスは、単なる性行為を越える宗教的な意味を有しているのだ。
ワタナベ君にとっては、あるいはこの小説にとっては、この段階でカタルシスが必要だったんです。(略)彼は玲子さんとやんなくちゃいけなかったんですよ。とことん。これ以上できないというくらいに。(『par AVION』1988/VOL.1「村上春樹ロングインタビュー│『ノルウェイの森』について」)
それは、死んだ直子の「生への未練」や「肉体の記憶」を、生き残ったワタナベが引き受け、浄化するための「弔いの儀式(葬儀)」だったのかもしれない。
レイコさんにとっての生存証明
唐突とも思える二人の性行為は、療養所(阿美寮)から抜け出したレイコさんが、現実に生きていることを確認するための神聖な行為でもある。
「ねえ、ワタナベ君、私とあれやろうよ」と弾き終ったあとでレイコさんが小さな声で言った。「不思議ですね」と僕は言った。「僕も同じことを考えてたんです」(村上春樹「ノルウェイの森」)
『ノルウェイの森』における性行為は、欲望の処理という以上に(あるいは、愛情の証という以上に)、「生きていることの証明」を意味する重要なメタファーとして読むべきなのなのだ。
ラストシーンの衝撃:「僕は今どこにいるんだ」の正体
レイコさんとの儀式を終えワタナベは、ようやく「現実世界」の象徴である緑に電話をかけることができる。
しかし、物語は、唐突な虚無感とともに幕を閉じた。
「どこでもない場所」という孤独
緑の声が聞こえているのに、自分がどこにいるのか分からない。この圧倒的な「喪失感」こそが、『ノルウェイの森』という物語が導き出した真実である。
「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。僕は今どこにいるのだ? 僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ?(村上春樹「ノルウェイの森」)
ワタナベは直子という「過去」を弔い、緑という「未来」を選んだ。
しかし、死者を背負って生きる決意をした彼は、もはや以前と同じ「無垢な生の世界」へと戻ることはできない。
『エリナー・リグビー』と『ノーホエア・マン』
そこには、『ノルウェイの森』と同じビートルズの曲が投影されている。
最後のシーンはビートルズの好きな人ならわかると思うけど、『エリナー・リグビー』と『ノーホエア・マン』ですね。その二つの曲の歌詞を読んでもらえれば、僕がその文章を最後に持ってきた意味はわかってもらえると思う。(『par AVION』1988/VOL.1「村上春樹ロングインタビュー│『ノルウェイの森』について」)
死者の世界「あちら側」でもなく、ただ生命力に溢れるだけの「こちら側」でもない、その中間にある「どこでもない場所」で、ワタナベは生きていかなくてはならない。
それが、この小説の主題である「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」ということなのだ。
▶ 詳細:直子(過去)と緑(未来)の間で引き裂かれるワタナベの葛藤
「37歳になったワタナベ」への回帰
そして、物語は、冒頭の「37歳になったワタナベ」へと戻っていく。
ワタナベが「こちら側の世界」で生き続けてきたことを証明するのが、冒頭に登場する「37歳の主人公」の姿だった。
飛行機が完全にストップして、人々がシートベルトを外し、物入れの中からバッグやら上着やらをとりだし始めるまで、僕はずっとあの草原の中にいた。僕は草の匂いをかぎ、肌に風を感じ、鳥の声を聴いた。それは一九六九年の秋で、僕はもうすぐ二十歳になろうとしていた。(村上春樹「ノルウェイの森」)
「1969年の草原」は、主人公(ワタナベ)の心の中にある(おそらくは、潜在意識下に潜んで、死んだキズキや直子たちと一緒に)。
カポーティ『草の竪琴』へのオマージュ
ちなみに「僕は草の匂いをかぎ、肌に風を感じ、鳥の声を聴いた」という過去への回想には、トルーマン・カポーティの名作『草の竪琴』に対するリスペクトが感じられる。
カポーティもまた、失われた過去を美しく再現することのできる作家だった。
村上春樹の訳した『草の竪琴』については、別記事で考察しているので、併せてご覧いただきたい。
一つの小説から物語の世界が広がっていく。それも、また、村上春樹という作家の魅力の一つだった。
なぜこの結末は「気持ち悪い」のか
親記事で考察しているように、『ノルウェイの森』が「気持ち悪い」と評される理由は、このラストシーンの徹底した「不在感」にある。
生と死の間に取り残される感覚
ハッピーエンドでもなく、完全な悲劇でもない。
愛する人を弔い、新しい愛を求めたはずなのに、なぜかしら「深い喪失感」だけが残る。
この「生と死の間に取り残される感覚」こそが、今、実際に生きている我々の不安を呼び覚ますのだ。
生存証明としての不安
彼は、今、「こちら側」でも「あちら側」でもない世界の境界線上にいる。
僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。(村上春樹「ノルウェイの森」)
逆に言うと、その不安は、我々が今実際に「生きている」ことの証明でもある。
人は皆、自分がどこにいるかも分からないままで、誰かの名前を呼びながら生き続けていくのかもしれない。
まとめ:喪失を抱えて歩き出すということ
『ノルウェイの森』は、喪失から立ち直る物語ではない。
喪失を「自分の一部」として受け入れ、混迷した現実の中にと戻っていく物語だ。
電話ボックスの中にあるワタナベの孤独は、今を生きる我々の孤独でもある。
その痛みを共有できたとき、この「気持ち悪い」ほどにリアルな物語は、かけがえのない一冊へと変わるのではないだろうか。
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