札幌まつりは、北海道神宮の例大祭である。
北海道神宮にはもちろん、中島公園にも多くの露店が並ぶ。
明治以来、札幌市民にとって札幌まつりは、特別の存在だったのだ。
さっぽろ・ふるさと文化百選の「札幌まつり」
北海道神宮の境内に、「さっぽろ・ふるさと文化百選」の記念碑が設置されている。
「さっぽろ・ふるさと文化百選」は、1988年(昭和63年)、札幌市創建120年を記念して選定された文化遺産のことで、北海道神宮の例大祭である「札幌まつり」も百選のひとつに選ばれた。
札幌神社(現在の北海道神宮)の例祭は、明治5年(1872年)開拓使により「北海道総鎮守」のまつりとして定められ、「札幌まつり」の名で道民に長く親しまれてきた。神輿渡御が行われるようになったのは、明治12年(1879年)からである。まつりの日に衣替えをする人が目立ち、初夏の訪れを告げる風物詩となっている。(さっぽろ・ふるさと文化百選「札幌まつり」)
「まつりの日に衣替えをする人が目立ち」とあるのは、渡辺淳一の小説『リラ冷えの街』(1971)からも分かる。
北海道の衣替えは六月半ばの北海道神宮の祭りの日からであった。その日から女学生は一斉に白に紺のリボンのセーラー服に変り、妻は袷から単衣に変る。人々の服装とともに初夏が一度に花開く。(渡辺淳一「リラ冷えの街」)
現在のように、庶民のライフスタイルが多様化するまで、札幌まつりは、札幌市民の生活の中に溶け込んでいたのだ。
お祭りには小学校の授業は一時間位で打ち切り、官公庁は二日間公認の半ドン。全道の銀行は十五日は一せい休業となった。(川上哲三郎「昭和初期のお祭り」/さっぽろ文庫68「札幌まつり」所収)
三浦綾子『ひつじが丘』(1966)でも、札幌まつりが登場している。
六月十四日は、札幌神社の宵宮祭である。夕食を終えて町へ出た奈緒美は、久しぶりに京子に電話をかけた。(三浦綾子「ひつじが丘」)
札幌の季節感を伝えるうえで札幌まつりは、札幌市民にとって欠くことのできない存在だったのだ。
二人は、明るい店のつづく狸小路を人の波にもまれながら歩いた。「ぼく、コーヒーよりビールを飲みたいな。ビールは札幌祭りの頃から、うまいんだ」(三浦綾子「ひつじが丘」)
「ビールは札幌祭りの頃から、うまいんだ」という良一の言葉だけで、初夏を生きる札幌の人たちの、生き生きとした様子が伝わってくる。
札幌生まれの作家(船山馨)の『稚情歌』(1946)は、札幌まつりが重要な舞台となっている。
官幣大社札幌神社御例祭。白地に墨黒ぐろとした丈高の幟が、あちこちの街角に、鳥の羽摶きのような乾いた音をたてていて。(船山馨「稚情歌」)
大正時代における札幌まつりの賑わいが、そこでは詳らかに描かれている。
年に一度の祭りのたびごとに、街の東、創成川の畔りに五、六町も立ちならぶさまざまな見世物小屋とは別に、毎年大通公園のなかほどに、これも新川という小さなせせらぎを前にしてひとつだけ、大きな曲馬団が天幕を張る。(船山馨「稚情歌」)
「街の東、創成川の畔りに五、六町も立ちならぶさまざまな見世物小屋」とあるのが、かつての札幌まつり最大の呼びものだった。
札幌まつりのサーカスは、1892年(明治25年)の小暮サーカスが虎を見せたのが最初で、1957年(昭和32年)には、創成川べりに見世物小屋が並ぶようになっていたらしい。
京都を模した碁盤縞の街を、南から北へ、一直線に流れる創成川。その川に沿うて蜿蜒とならんだ掛小屋は百に近い。(略)それらの軒なみの小屋から、太鼓、鐘、三味線、笛、楽隊と思い思いの鳴り物が響く。(船山馨「稚情歌」)
創成川畔と大通西五丁目の二か所で営業していた見世物小屋は、大通西五丁目が花壇となったため、1930年(昭和5年)から、すべて創成川畔に集約された。
サーカス小屋のジンタは、戦前の札幌まつりの賑わいを象徴するメロディだったかもしれない。
戦後、札幌まつりは、再び活気を取り戻すが、1959年(昭和34年)、大規模な火災が発生して、大きな転換期を迎える。
まつり気分に酔う白昼、創成川畔の定員五〇〇人のところ数倍になった満員のサーカス小屋から突然火が吹き、たちまち隣接のライオンショー、ストリップショー、蛇ショー小屋へと燃え移り、約五〇人が重軽傷、ライオン五頭、トラ二頭、サル六匹が死んだという。(さっぽろ文庫68「札幌まつり」)
結局、創成川畔は、群衆の集まるイベントには不適とみなされ、翌年の1960年(昭和35年)以降は、中島公園を会場とするようになった。
現在も、中島公園で続いている札幌まつりの出店は、サーカス小屋の大火事がきっかけだったのだ。
もっとも、近年は、昔のようなサーカスもなく、中島公園の札幌まつりは、静かなものになったという。
北海道神宮の札幌まつり
1994年(平成6年)に刊行された札幌文庫68『札幌まつり』でも、祭りの変貌に触れた文章がある。
一方、中島公園の見世物小屋も近代化の波に押され、最近はサーカスもなく、昔のようにわびしいジンタの音も聞かれず、「お化け屋敷」の小屋が面影を残している程度で、昔の勢いはない。(さっぽろ文庫68「札幌まつり」)
古い札幌市民にとって札幌まつりは、やはり、創成川畔のサーカス小屋に象徴されていたのだろう。
札幌文庫68『札幌まつり』には、多くの札幌市民が綴った札幌まつりの思い出が収録されている。
見世物小屋と向き合って民家にお尻をつけるようにして売店が並び、夜になるとアセチリンの匂いをプンプンさせて明かりが光り、遅くまで賑やかでした。(奥泉栄「明治の札幌祭り」/札幌文庫68『札幌まつり』所収)
露店の灯すアセチレンの明かりは、特に印象深いものだったらしい。
露店は夜になるとアセチレン灯をともして辺り一杯にガスの匂いが漂い、夜店の郷愁を一層そそるのであった。(川上哲三郎「昭和初期の札幌祭り」/札幌文庫68『札幌まつり』所収)
大学生にとっては、アルバイトの機会でもあった。
昭和二十六年の春に北大に入学して間もなく学生課のアルバイト掲示板に「札幌祭り神輿担ぎ手募集六十人日当四百円」の掲示が出た。日雇い作業員の日当がニコヨンと言って二四〇円だった時代なので、高額の日当が魅力で応募した。(山田幸一「学生時代に担いだ神輿」/札幌文庫68『札幌まつり』所収)
この文章を読んで思い出したが、自分自身も、札幌まつりで神輿担ぎのアルバイトに参加したことがある。
バブル時代・1980年代後半のことで、昼食の弁当以外にも、差し入れのお菓子が食べ放題(差し入れの日本酒も飲み放題)という、素晴らしいアルバイトだった。
大きな山車の上には、山車と電線が接触しないよう、係のバイト学生が乗っているのだが、酒を飲んで酔っ払い、バイトどころではなくなったという笑い話もある(結局、電線と衝突して、山車の上の部分が破損してしまった)。
巫女のアルバイトに来ている女子高生と連絡先を交換したりと、学生時代、あんなに楽しかった札幌まつりは他にない(あるはずもないが)。
札幌まつりには「中島公園派」と「北海道神宮派」がある。
札幌まつりの露店と言えば、都心部に近い中島公園が有名だが、北海道神宮の参道にも、たくさんの露店が建ち並ぶ。
札幌祭りの「通」を自称する人は、意外と(ミーハーな)中島公園よりも、(マニアックな)北海道神宮をひいきにするものだ。
一昔前までは、一般市民がフリマ感覚で店を出していて、古着やレコード、古雑貨などを並べているのを冷やかして歩くのも楽しかったが、最近は、的屋が営む食べ物屋ばかりになってしまった。
金魚売りやミドリガメ、カラーひよこなど、生き物を扱う店も少なくなったのではないだろうか。
祭りの縁日は多様化に逆行して、売れ筋に集中する傾向があるのかもしれない。
北海道神宮の楽しみといえば、六花亭神宮茶屋店のお菓子「判官さま」がある。
「判官(はんがん)」とは、初代の主席開拓判官・島義勇(しま よしたけ)のことで、札幌市民が「島判官」を愛する気持ちが込められている。
「判官さま」は、通常は、北海道神宮でしか買うことのできないお菓子だが、札幌まつりの期間中は、街の六花亭店舗でも(期間限定で)特別販売されている。
昔は「知る人ぞ知る」レアなお菓子だったが、最近では観光客まで「判官さま」を求めるらしい。
札幌三越にある六花亭のレジでは、「今日は特別に『判官さま』も販売していますよ」と、会計をする客に「判官さま」をお勧めしていた。
「判官さま」は、餡子が入ったそば粉の焼き餅で、開拓時代を偲ばせる素朴な味わいで、地味に人気がある。
普段は買うことのできない商品だけに、六花亭札幌三越店も、「判官さま」を買い求める人で賑わっていた。
札幌まつりは、やはり、札幌市民にとって(生活の中の)特別な祭りであってほしいと思う。
中島公園の露店だけが札幌まつりでは、やはり寂しいと思うから。