村上春樹考察

【ノルウェイの森】直子(過去)と緑(未来)の間で引き裂かれるワタナベの葛藤

【ノルウェイの森】直子(過去)と緑(未来)の間で引き裂かれるワタナベの葛藤

『ノルウェイの森』において、読者の好みが真っ二つに分かれるのが、二人のヒロイン――「直子」と「緑」の存在だろう。

死の影を纏い、どこかはかなく、どこまでも静かな直子。

対して、下ネタを連発し、瑞々しいほど(時に不謹慎なまでに)生命力に溢れた緑。

なぜワタナベは、全く正反対の二人の間で揺れ動き、苦悩しなければならなかったのか。

そこには「過去」と「未来」、「死」と「生」という、逃れられない対比構造が隠されている。

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直子という「過去」:美しく凍りついた死の聖域

ワタナベにとって、直子は「過去」を象徴している。

直子という過去を愛した男

主人公・ワタナベにとって、直子は「失われた季節」の象徴である。

彼女と過ごす時間には、死者である「キズキ」の影が常に差していた。

「阿美寮」という社会から隔絶された境界線の中で直子は、過去の記憶とともに静かに崩壊していく。

キズキの死を抱えて生きていく

ワタナベにとって、直子を愛するということは、過ぎ去った時間を愛するということでもあった。

それは、彼自身の中で抱き続けている「キズキの死」を愛するということでもある。

小記事①で考察したように、直子の世界は既に「あちら側(死の世界)」であり、「こちら側(生の世界)」と共存できるものではなかった。

ここに、ワタナベの苦悩がある。

詳細:直子とキズキはなぜ死んだのか? 阿美寮のメタファーを解く

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緑という「未来」:不謹慎で泥臭い生のリアリティ

直子で対極で生きているのが「小林緑」である。

多くの読者が緑の言動を「気持ち悪い」と感じるのは、彼女が「死の気配」を一切拒絶するほどの「剥き出しの生命力」を放出しているからに他ならない。

病室という「生と死の境界線」

緑は、自分の父親が病室で死にゆく際にも、ワタナベに性的で奔放な言葉を投げかけている。

一見、不謹慎極まりない言動の中には、緑という登場人物が持つ本質が現れている。

父親が入院する病室は、緑にとって「生と死の境界線」である(まるで直子が入所している「阿美寮」のように)。

ストレートな渇望

「イチゴのショートケーキ」のエピソードに象徴されるように、緑は自分の欲求に対して正直に生きている。

彼女はワタナベに「自分だけを100パーセント愛してほしい」とストレートに要求する。

わがままな「100パーセントの要求」は、「生と死の境界線」で揺れ動くワタナベを「こちら側の世界(現実)」へと繋ぎ止める、重要なエネルギーとなっていた。

『ライ麦畑でつかまえて』としての緑

レイコさんは、ワタナベに「あの『ライ麦畑』の男の子の真似してるわけじゃないわよね」と問いかけている。

しかし、『ライ麦畑』の主人公(ホールデン・コールフィールド)の姿は、ワタナベ君よりも、むしろ、緑に投影されていると考えたい。

「そのとき思ったわ、私。こいつらみんなインチキだって」(村上春樹「ノルウェイの森」)

現代社会の欺瞞を糾弾する緑の言葉は、もしかすると、ホールデン・コールフィールドにインスパイアされたものだったのかもしれない。

「私が赤い帽子をかぶってたら、道で会っても声をかけずにさっさと逃げればいいのよ」)という緑のセリフは、ホールデン・コールフィールドの「赤い帽子」にも通じるものだった。

▶『ライ麦畑でつかまえて(キャッチャー・イン・ザ・ライ)』については、別記事で考察しています。

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「引き裂かれる」ことの必然性

直子と緑の間で揺れ動くワタナベの姿は、優柔不断にも見える。

再生のプロセス

ワタナベの葛藤は、人間が生きていく上で避けることのできない「精神(純粋な過去)」と「肉体(泥臭い現在)」の葛藤である。

そして、「向こう側の世界」に引き付けられたワタナベを「こちら側の世界」へ引き戻すのが、たくましい生命力を持つ小林緑だった

緑と二人でウィンドウ・ショッピングをしながら歩いていると、さっきまでに比べて街の光景はそれほど不自然には感じられなくなってきた。「君に会ったおかげで少しこの世界に馴染んだような気がする」(村上春樹「ノルウェイの森」)

ワタナベは、直子と緑が象徴する「生」と「死」との間で揺れ動いていたのである。

緑と永沢さんとの同質性

それは、無意味なガールハントに追われる先輩・永沢さんとの交流にも通じるものだ。

生き続けていくために永沢さんは、常に見知らぬ女の子たちとセックスをしていなければならない。

永沢さんは、緑とともに、主人公・ワタナベをこちら側の世界へと強く引き寄せている。

キズキと直子に象徴される「死の世界」と、緑と永沢さんに象徴される「生の世界」。

そして、本作『ノルウェイの森』において「セックス」は、「死」の対極に位置するものとして描かれているのである。

まとめ:直子に憧れ、緑に救われる

直子の持つ静謐な美しさは、我々の孤独に深く寄り添ってくれる。

しかし、我々を暗闇の中から引き上げてくれるのは、緑の持つ「瑞々しいまでの生命力」だった。

最後の場面で緑に電話をかけたとき、ワタナベはようやく「過去という聖域」から抜け出し、混沌とした現実世界へと戻っていく。

次回は、本作最大の謎であり、最も物議を醸すだろう「レイコさんとの一夜」について、深掘りしていきたい。

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ジェン
文学考察ブログ『時空標本』管理人。物語の中に流れる時間を切り取り、言葉の標本として保存する。村上春樹、近代文学、そして古物を愛す。